東京といっても、西郊に生まれ育った人間だから、幼い時から隅田川に親しんできたというほどのことはない。しかし、東京の川というと多摩川よりは隅田川の方を反射的に思い浮かべるくらいには、この川は心の中にも流れ続けている。それはおそらく、隅田川が杉並あたりの子供にとってはそれ自体異郷に近かった浅草のほとりを流れ、松屋デパートの屋上から対岸のビール会社のあたりを眺め、川面を見下ろすと、波が昼は日の光に、夜は明かりにきらめいていたこと、その松屋の横腹にトンネルがあいていて、そこから出て来た東武電車が直ちにこの川に架けられた鉄橋を渡って、建て混んだ下町の中に消えてゆく眺めが、子供心に物珍しかったことなどという幼時体験にもとづくのに違いない。そして、その思いは四十年後の現在でもそれほど変わってはいないのである。松屋の屋上に登らなくなってから久しいものがあるが、今でも吾妻橋の上に立って、川上に架せられている鉄橋を渡った東武電車が街中に消えていったり、反対に松屋のおなかに潜っていったりするのを見ると、何ということなく懐かしくなる。
この程度の隅田川体験ののちに、『伊勢物語』の東下り、能の「隅田川」、そして荷風の『すみだ川』、芥川の『本所両国』などに振れるようになった。同じく荷風の『冷笑』や『浮枕』、それから鏡花の『鴛鴦帳』や『芍薬の歌』、川端の『浅草紅団』などを読んだのはやや後のことだった。
芝居を見始めたのは決して早い方ではなく、中学三年頃だったのではないかと思う。そして忽ちこの妖しい世界に捉えられてしまった。今までの隅田川に重なって、書割りの隅田川が心の中を流れるようにあった。むしろその方が豊かな流れに思われた。
大学を終えて大学院に入った年、葛飾区の都立高校の非常勤講師というアルバイトにありついた。当時はアルバイト難で、こういう仕事があっただけでも幸運というべきだったが、次第に心の中の豊かな流れとなりつつあった隅田川を少なくとも週に二度は渡るということが嬉しかった。杉並から葛飾の、当時は畠の真中にあったその高校まで通うのは、ちょっとした旅である。常磐線なら亀有で降りる。京成電車ならお花茶屋から掘割に沿って歩く。帰りは急がないから、バスで浅草まで出るという道もある。いずれにせよ、必ず隅田川を渡る。一番上流寄りは千住大橋のあたりで渡る京成電車、最も下流は吾妻橋を渡るバスである。そのどれもがそれぞれいい。もはや昭和三十年代初めの隅田川である。美しいわけはない。しかし、鉄橋を渡るたびに見ずにはいられないのである。上流寄りの時はついでに千住のお化け煙突を見る。下流のバス路線は向島を抜けて浅草雷門に着くから、時には百花園や隅田堤あたりで降りてしまう。その頃は芝居の延長で、江戸音曲にも沈湎していたから、墨汁を流したような現実の隅田川を見ながら、耳底では「松葉簪二筋の、石の碑露踏み分けて、含む矢立の墨田川」などという、長唄の「吾妻八景」の一節を繰り返し響かせていた。
「都鳥」という曲が好きになったのは、それよりちょっとあとのことかもしれない。歌舞伎座で南北の「隅田川花御所染」を復活上演した。女清玄と鏡山のないまぜ狂言である。この芝居の終わり近くで、すっかり落ちぶれた歌右衛門の清玄尼が蘆のぼうぼうと生い茂る隅田河畔にたどりつく。と、黒御簾から流れてきたのがこの曲であった。
便りくる船の内こそゆかしけれ、君なつかしと都鳥、幾代かここに隅田川、往き来の人に名のみ問はれて、…
若松丸を忘れられない清玄尼の述懐の科白があって、トヒヨ(鳥の鳴声を表す笛)で都鳥の越えを聞かせたと思う。そして、とぎれとぎれに唄を入れて、確かその時は芝居での季節に合わせて、「憎やつれなく明くる春の夜」と歌い終わったような気がする。本当は「明くる夏の夜」なおだということは、あとで知った。高音の前弾きとこの終わり近くに入る長い合方が好きで、のちにはレコードも仕入れた。
それから、いつだったか伊東深水の「都鳥」という美人画を見たことがある。長唄の「都鳥」を踊っている若い娘の姿を描いたものである。それは明らかに現代女性で、翳りのない表情・姿態ともに昭和のものと思われたが、この絵もこの曲と結び付いて、なかなか消えない。しかし、現実にはそういうお嬢さんにめぐり逢うことはついに無かった。
そのうちにだんだん本業の古典和歌についての勉強が忙しくなってきた。芝居を観ることからも、音曲を聴くことからも次第に遠ざかってしまった。ある時、『新後撰和歌集』という、鎌倉時代の勅撰集の中でも人気がない集の羇旅の歌を見ていた。すると、「題しらず」の歌として、
都鳥幾代かここに隅田川ゆききの人に名のみ問はれて
という作に出くわした。作者は三井寺の坊さんで法印清誉という人である。長唄「都鳥」の歌い出し近く、高く長く引っぱって歌ういわゆる聞かせ所は、この人気の無い集のほとんど無名に近い歌人の歌をそのまま裁ち入れたものだったのだ。それにしても、作詞者はどこでこの古歌に触れ、それをこの曲に生かそうと思い付いたのだろうか。作詞者の教養に尊敬の念を抱くとともに、いつしか水量の衰えた心の中の隅田川が、遠く懐かしいものとして思い出された。
ここのところ、『とはずがたり』を読んでいる。その巻の四、八月十五夜に浅草観音に詣でた尼姿の後深草院二条は、その翌日隅田川のほとりに佇む。おそらくこの時代この川はもっと東寄りに流れていたのであろう。
さても、隅田河原近きほどにやと思ふも、いと大きなる橋の、清水・祇園の橋の体なるを渡るに、きたなげなき男二人逢ひたり。「このわたりに隅田川といふ川の侍るなるはいづくぞ」と問へば、「これなんその川なる。この橋をば須田の橋と申し侍り。昔は橋なくて、渡し舟にて人を渡しけるも煩はしくとて、橋出て来て侍り。隅田川などはやさしきことに申し置けるにや、賤がことわざには、須田川の橋とぞ申し侍る。…」など語れば、業平の中将、
尋ねこし甲斐こそなけれ隅田川住みけん鳥の跡だにもなし
川霧こめて、来し方行く先も見えず、涙に昏れて行く折節、雲居遥かに鳴く雁がねの声も、折知り顔に覚え侍りて、
旅の空並だしぐれて行く袖を言問ふ雁の声ぞかなしき
心のうちに後深草院や亡き有明の阿闍梨の面影を宿しているに違いない、この時の尼姿の二条を思い描くと、歌右衛門の扮した清玄尼がそこに重なってしまう。そしてまた、実に久しぶりに耳の底を「都鳥」の曲が流れてくる。
君なつかしと都鳥、幾代かここに隅田川、往き来の人に名のみ問はれて、……
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