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河川局

資料6 隅 田 川 と 文 学

地名散策第四十六回 隅田川
含む矢立の墨田川−千住から向島へ−
久保田淳

 

 斎藤家三代の労作、『江戸名所図会』巻之七揺光之部にいう。

源は信州・甲州及び上野等の国々の山谷より発し、武州秩父郡の諸流に合して、これを中津川といふ。…榛澤・男衾二郡の界を東流し、大里郡の中、熊谷に至り分流す。これを荒川といふ。一流は横見・比企・入間・新坐、この地に至りて入間川も落ち会へり。足立等の五郡に亘り、豊島・葛飾の両郡の中を流れて、千住に至る。末は浅草川といふ。今これをさして隅田川と称す。

 この説明も輻湊する往古の川筋同様相当繁雑だが、今日の隅田川の解説もそう簡単にはいかない。川越方面から流れてくる新河岸川は東京都北区志茂のあたりで荒川と合する。その地点に岩淵水門が設けられている。この水門から下流が隅田川とされる。では荒川はどうなっているかというと、同じ水門の下流、明治四十四年に着工して昭和五年に完成した荒川放水路−水門より東京湾まで二十二キロに及ぶ−が現在の荒川本流なのである。だから今日の隅田川は、荒川とともに新河岸川の下流ということになる。「もと荒川の下流。広義には岩淵水門から、通常は墨田区鐘ヶ淵から河口までをいう」とある『広辞苑』の、いささか持って回った説明も、やむをえないというべきであろう。


木母寺「梅若塚(『江戸名所図会』)第7より)

 文学にしげしげと登場する隅田川は、東流してきた川筋が大きく屈曲し、東京湾をさして南下する、鐘ヶ淵以南である。しかし、その手前の千住を忘れてはいけない。元禄二年(一六八九)三月末『おくのほそ道』への旅立ちをした芭蕉は、深川から乗ってきた船をあがり、ここから一歩一歩奥州街道を踏みしめていった。

千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝく。
(『おくのほそ道』)

 千住大橋の袂には、現在このことを記した碑が建てられている。
 荒川区南千住の対岸は足立区千住関屋町である。関屋の里は、康元元年(一二五六)鹿島社参詣の途中ここを通った真観(藤原光俊)によって歌われている。

庵崎のすみだ河原に日は暮れぬ関屋の里に宿や借らまし
(『夫木和歌抄』巻三十一)

 この歌の左注に、「前には海、船も多く泊りたり」とある。南千住には汐入の地名も残る。中世の江戸湾は深く内陸部に入り込んでいた。
 そして、ようやく鐘ヶ淵。沈鐘伝説にもとづく地名である。沈鐘の出所に関して『江戸名所図会』は、現在亀戸にある普門院の鐘、橋場長昌寺の鐘の両説を記している。本家争いがあったのであろう。法界坊の芝居、『隅田川続俤』の大喜利、所作事の常磐津「両顔月姿絵」では、法界坊の勧進した鐘が、彼と彼の手にかかって殺された野分姫の合体した怨霊もろとも沈んだことにしている。

かの怨霊の旧跡も日高にあらぬ隅田川、鐘が淵とぞ今の世に、伝えて其名を残しける。

 現在の鐘ヶ淵は東武伊勢崎線の駅と中学校にその名をとどめている。鐘ヶ淵駅の北にあるのが、隅田川七福神のうち毘沙門天の多聞寺。西方、隅田川の東岸沿いには木母寺(梅若塚)、そして隅田川神社(水神)が鎮坐する。墨堤通りに沿って、万里の長城を思わせる白鬚東地区防災拠点の高層住宅が立ち並び、その一角を潜り抜けると、現代建築の木母寺に至る。能「隅田川」、近松門左衛門の時代浄瑠璃「双生隅田川」、そして数々の隅田川物を生んだ梅若伝説の寺である。文明年間には万里集九も道興准后も訪れている。「さても去年三月十五日、しかもけふにあひ当たりて候ふぞや」−能の「隅田川」の渡し守は、梅若丸がこの地ではかなくなった日を三月十五日と語るが、現在は四月十五日を梅若忌として、謡曲「隅田川」の奉納も行われているという。
 東武線の鐘ヶ淵の次、浅草寄りの駅は東向島。かつては玉の井といった。

里の名を人のとひなばしらつゆの玉の井深きそこといはまし
荷風

 駅の西に百花園、そして白鬚神社がある。百花園は七福神のうち福禄寿、白鬚神社は寿老人を祀る。百花園は俳人鞠塢が文化元年(一八〇四)に創めた、いわば古典文学植物園である。『浮世風呂』によれば、新梅屋敷(亀戸の梅屋敷に対して「新」という)とか隅田河花屋敷などとも呼ばれたらしい。関東大震災、そして戦災と、二度の災害を経たが、「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」の聯の掛かる茅葺門は、江戸の風流、隅田川の文化人佐原鞠塢の心意気を今に伝える。園内には碑が多い。長唄「吾妻八景」の、「松葉簪二筋の、道の碑露踏み分けて、含む矢立の墨田川、目に付く秋の七草に、拍子通はす紙砧」という詞章は、おそらく百花園とその周辺、文政年間の寺島村の風情を写したものであろう。その碑のうちの一つ、

うつくしきものは月日ぞ年の花 宝屋月彦

 白鬚神社から墨堤通りを南へ下ると、長名寺(弁財天)、弘福寺(布袋尊)、少し先に三囲神社(恵比寿・大黒天)と、七福神ゆかりの寺社が続く。墨堤はそれらの寺社の背後に高く、桜を並木として長く連なる。ゆったりとした隅田の流れを隔てて対岸を望めば、橋場から今戸、そして僅かに盛り上がった待乳山の聖天様。昨今は今戸焼を目にすることもなくなったが、かつては「橋場今戸の朝煙、続く竈も賑はうて」(清元「梅の春」)という風景が見られたのであろう。
 舞台上のことではあるが、その昔この堤では幾つの若い命が死への道を急いだことであろうか。河竹黙阿弥の『都鳥廓白浪』では、吉田家の梅若丸が旧臣の忍ぶの惣太に誤って絞め殺された。上方から江戸に移されたお染久松も、ここから身を投じた。

顔見合せて目は涙、今は二人もつかの間に、弥陀の御国に隅田川、蓮の台の新世帯、いざ言問はん都鳥、足と橋場の明け近き、はや長命寺の鐘の音も、ここに浮名や流すらん、〜。
(清元「道行浮塒鴎」)

せめて両国界隈までと思った散策もいささか足たゆくなった。目の下の桜橋を渡って浅草へ抜けようか、それともこの岸辺の茶屋で一服しようか。
川面をせわしなくゆりかもめが舞う。

(くぼた じゅん・白百合女子大学教授)


「新日本古典文学大系」 月報64 '95年12月 岩波書店


 
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