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河川局

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会 -日本文学に見る河川-

歴史・風土に根ざした郷土の川懇談会
-日本文学に見る河川-
第三回議事録

平 成13年7月6日(金)
14:00〜17:00

場所:中央合同庁舎三号館二階特別会議室

4.話題提供(2)
○五味委員
   「今様から河川を考える」ということで話をさせていただきたいと思いますけれども、今様という現代で言えば歌謡曲になるのですけれども、大体平安時代から鎌倉初期ぐらいまでに下って300年ほどですか、広く流行した歌謡、一般的に民衆歌謡というふうな言い方をするところもあるのですけれども、それが比較的河川とのかかわり合いというのを歌った歌が非常に多いので、そこから見えてくる河川のあり方というものを探ってみようということです。
 素材になるのは「梁塵秘抄」という、これは後白河法皇が編集したものでありまして、後白河法皇は、若い時代、お母さんの影響を受けまして今様三昧で喉を3度つぶしたと言われるぐらい今様好きで、今様を歌って往生したいというのが1つのあれだったわけですね。そういう稀代の歌い手が編集したのが「梁塵秘抄」というものです。
 そこに挙げておきましたけれども、淀川と今様との関係が深い。これはなぜかと言いますと、淀川の河口のところは江口というのですね。それからそのすぐ隣の神崎川のところに神崎という、これが遊女たちの根拠地になりまして、瀬戸内海と淀川とを結ぶ交通の要衝ですから、そこに往来する客を接待するというふうな中でもって今様が広く歌われていたわけです。ですから、その遊女たちが淀川に船を浮かべながらさまざまな歌を歌っているということで、幾つかそこに淀川と遊女たちのかかわり合いのある歌を挙げておきました。
 例えば「京よりくだりしとけのほる 島江に屋建てて住みしかど そも知らず打ち捨てて いかに祭れば百大夫 験無くて花の都に帰すらん」と、こういうふうな歌があるのですね。恐らく京から下ってきた「とけのほる」という遊女なのではないかと思うのですけれども、島江というのが江口と神崎との間ぐらいですから、江口からこのあたりは、昔は入り組んだ海との接点になっていました。島江はちょっと江口より西の方になりますけれども、その島江に家を建てて住んだけれども、どうしたのかそれを打ち捨てて都に帰ってしまった。「百大夫」というのは、これは遊女たちが信仰している障の神ですね。簡単に言えば自分の愛するお客になってくる人とぜひとも結びつけてほしいという祈りを込めてやった神様なのですけれども、その百大夫という神様にどう祭ったのだろうか、あいつはその験なくして、その印もなくて都に帰ってしまったというふうな今様なのです。
 では淀川はどういうふうに歌われているかということですが、475番、「淀川の底の深きに鮎の子の 鵜という鳥に背中食はれてきりきりめく いとをしや」という歌があります。これは、淀川の底の深いところで鮎の子が鵜という鳥に背中を食われてきりきりともがいている、かわいそうだと、こういうふうな歌になるわけですね。淀川に船を浮かべながら、そこで、鵜飼い船でもって鮎を取っている。そういうふうな中でもって見えた情景というもので、この最後の「きりきりめく いとをしや」というのが、非常に語感の響きがいい歌になっておりますけれども、恐らくそれは単に鮎の子がかわいそうというのではなくて、逆に言うと遊女の自分の境涯というようなものが鮎の子に託されているというふうに考えるべきなのだろうと思うのですね。
 そういう点からその次の04番、355番、「鵜飼いはいとほしや 万却年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん」、鵜飼いは気の毒だ、鵜の餌に多くの年も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。いわば殺生によって生きていくというのは地獄に落ちるのだと。そんなようなことから見ると、自分の後生も遊女をやっていたら救われないのだ。「泥犂」というのは地獄と言いますけれども、「泥犂に入りなんず」という歌もありまして、そういうところから、みずからのことを鮎の子に託したのではないかということですね。
 このように淀川から遡って桂川ではずっと鵜飼いが行われていて、一方では遊宴の場というのが川で繰り広げられているということになりますから、その次の「盃と鵜の食ふ魚と女子は 法無きものぞ去来二人寝ん」、こういう酒と鮎と女の子と3つそろえばどうにもならない、さあ2人で寝ようとするかという、これは恐らく客の方から歌った歌なのだろうと思うのですけれども、淀川の川を舞台にしながら、当時の人々というものが生活していたということがよくわかるかと思うのですね。
 その次の390番になりますと、「淡路の門渡る特牛こそ 角を並べて渡るなれ しりなる女牛の産む特牛 背斑小女牛は今ぞ行く」、こういう歌があります。淡路の門を渡る牝牛たちは角を並べて渡っていく。最後に進む牝牛の産んだ牝牛、背が斑な小さな牝牛が渡っていくよという歌です。
 この「淡路の門」というのは淡路島から瀬戸内海を渡って行く風景を歌ったのだというふうに言われてきているのですけれども、どうも船を渡る牛たちの風景にしては角を並べて渡るとか、最後に進んでいる牝牛の産んだ牡牛とか、背が斑な小さな牛が今渡っていくというのはどうも表現としておかしいのですね。これはどうも「淡路」というふうなものは淡路島ではないのだろうというふうに考えられるわけですね。 私はそんなふうに漠然と思っていたのですが、あるときにちょっと江口に行こうとしましたら、ちょうど阪急の淡路駅で降りる、「あれ淡路というのはここではないか」ということになるわけですね。「淡路の門」というのは、必ずしも海というわけではなくて、川門もあるわけですから、淀川にも「淡路の荘」という摂関家の荘園がちょうどあるわけですね。それから「典薬寮の味原牧」、「あじふのまき」とも言いますけれども、これに「牛の牧」というのがありまして、大江匡房の「遊女記」にも江口の近くに「典薬寮の味原牧」というようなものがある。あるいは、藤原頼通の高野山参詣の記録にも、これは「乳牛の牧」となっているのです。「乳牛の牧の前の水絶へ瀬に改む、弥よ往還の煩有り」ということですから、どうもこれは牛が淡路の門というものを渡っていく風景を描いたものだ。そうすれば角を並べて渡っており、後ろの方にいるのがどうのこうのというのもわかってくる。調べていきますと、「延喜式」の中に乳牛の牧というのが、毎年4歳から12歳までの母牛と子牛とが乳牛の院というのに送られていくのですね。そこで乳牛というようなものが取られる。ですから、ちょうどそういうふうな風景を歌っていると考えられるわけです。

○委員
   その牝牛というのは牛乳を取るのですか。

○五味委員
   ええ、牛乳です。

○委員
   醍醐か。

○五味委員
   ええ、醍醐です。醍醐味というのは5番目の最上のミルクなのですね。
 淀川をずっと京都の方に行きますと、途中、東の方のところに男山の石清水八幡宮があるのですね。石清水八幡宮にかかわる今様というのは非常に多いわけでして、そこに挙げましたのが261番、「八幡へ参らんと思へども 賀茂川桂川いとはやし あなはやしな 淀の渡に船うけて迎え給へ大菩薩」という歌があります。八幡へ参ろうと、こういうふうに思っても賀茂川や桂川の流れが非常に早い。ああ、早いことだと。淀の渡に船を浮かべてお迎えください、八幡大菩薩よと、このままでは渡れないから八幡大菩薩よ、迎えに来てくださいという、非常に信心があるようなないような、一見すると歌にとれるのですけれども、これは単純に早いから浮かべてくださいというだけではなくて、ここの意味はどういうことかというと、八幡に行こうと思っているのだけれども、淀川とかそういうふうな現世のいろいろなものがあってなかなかそこを渡れない。そこで、申しわけないけれども、八幡大菩薩よ、阿弥陀様よ、私を救いに来てください、此岸から彼岸へと、そういう救いの意味を込めてこの歌というものが歌われているわけですね。
 淀川をさかのぼっていきますと、やがて桂川、それから賀茂川とこうなっていくわけなのですけれども、桂川の方、これもやはり遊女たちの歌が見えます。「桂川と大井川」というところですが、307番、「いづれか法輪にまいる道 うちの通りの西の京 それを過ぎて や 常盤林のあなたなる 愛敬流れくる大堰川」というのがあります。「法輪にまいる」というのは、大堰川の渡月橋を渡ったところにある法輪寺ですね。知恵の神である虚空蔵菩薩の信仰で有名なところですね。ですから、京都の貴族というのは、大体は教育のためになるとここに小さいころからお参りをするわけですね。お参りすると言っても嵯峨野とかそういうのは一方では遊び場になっておりますから、もちろん教育の意味もあるのですけれども、1つはそういう意味合いがありまして、「愛敬流れくる」、まさにこの「愛敬」というのが「あいきょう」になるわけです。「捨芥抄」に「大井河(傀儡)」という、これが遊女のことになるのですね。「傀儡居住上一町許」。藤原為家の「寄傀儡恋 大井河岸のとまやの竹柱うかりし節やかぎりなりけん」。ですから、やはり大井川の周辺にもこの遊女たちがいたということになります。
 ですから、「嵯峨野の興宴は 鵜舟筏師流紅葉 山陰響かす筝の琴 浄土の遊びに異ならず」ということで、この嵯峨野一帯の風景というもの、特に「鵜舟筏師流紅葉」というふうなものが当時から愛でられていたということになります。
 また、308番、「嵯峨野の興宴は 山負う桂 まうまう車たにてうが原、亀山法輪や大堰川 ふち々々風に神さび松尾の 最初の如月の 初午に富配る」というふうな歌がございまして、桂川一帯というふうなものが遊宴の地としてもてはやされたということになるわけですね。
 それから24番、「西山通りに来る樵夫 を背を並べてさぞ渡る 桂川 しりなる樵夫は新樵夫な 波に折られて尻杖捨ててかいもとるめり」という歌があります。これは西山から桂川を渡っていく樵夫たちの風景。ちょうど先ほどは牛が渡っていて、一番後ろをヨチヨチしていた牛の話だったのですけれども、こちらではかなり強い流れの中で樵夫になったばかりなのが杖を折られてもがいている。恐らくそういうふうなものを見ながら遊女が歌った歌なのではないかというふうに考えられます。
 こういうふうに桂川というのは淀川の上流として同じように遊女たちによって歌われ、そこが活動の場としてあったわけなのです。
 賀茂川の方に入っていきますと、ずっと川沿いに神社があるのですね。最初が稲荷社、それから祇園社、それから下賀茂、上賀茂の賀茂社の両社、それからさらにずっと北の方に行って貴船社というふうに、ちょうど賀茂川に沿いながら神社が建てられていく。特に、下賀茂社、上賀茂社、この神は賀茂川を上って、そしてここに鎮座したのですね。上賀茂は別雷と言われるようにそこからさらに鎮座した。それからずっと北の方に行くと貴船社というのも、これは賀茂社の若宮であると言われている神社でありまして、いずれにしても川沿いにこういうふうな神と神社というものが設けられております。
 それと同時にもう一つ本来は西の京、広隆寺とかがあるように、あちらの方が中心地だったのですけれども、やがて賀茂川の治水がしっかりしてきますと、東の京の方が栄えるようになるわけですね。そうしますと、今度は賀茂川の東の方に新しい場が生まれてきまして、洛中というのが世俗のいわばこちらの岸、此岸、それに対して賀茂川を渡った東山の方が彼岸、こういうふうなとらえられ方もしております。
 賀茂川には基本的には2つの橋がかけられています。1つは五条大橋と言われる、清水寺橋とも言いますけれども、清水寺に行く橋。それから祇園社、京都の祇園社に行く四条の橋、この2つの橋。それ以外は、橋は基本的にはかけられませんでして、どういう橋かというと、普通ですと船をつないだ船橋というものですね。船をつないでそこを渡るという仮設の橋というものがかけられて、それが橋を渡るということになります。
 314番「いづれか清水へ参る道 京(極くだ)りに五条まで 石橋よ 東の橋詰四つ棟六波羅堂 愛宕寺大仏深井とか それを打ち過ぎて八坂寺 一段上りて見下ろせば 主典大夫が仁王堂 塔の下天降り末社 南を打ち見れば 手水棚手水とか 御前に参りて恭敬礼拝して見下ろせば この滝は様がる滝の 興がる滝の水」という、これは洛中から清水寺に行く参詣路を歌った歌なのですけれども、まあ1人で当然行くわけではなくて、2人で行くわけです。清水寺橋というのは清水寺参詣の橋ということで、民衆から喜捨を受けまして建てられた橋になるわけですね。そこを渡っていきますと四つ棟の六波羅堂、六波羅密寺がある。愛宕寺大仏、これは雲居寺と言われているお寺なのですけれども、奈良の大仏の半分、雲居寺の大仏と言いまして、これも阿弥陀仏ですね。深井というのは今も地名としては残るのですけれども、どうも何か余りよくわかりません。それを打ち過ぎて八坂寺、法観寺ですね。今、八坂の塔があります。恐らく、「一段上りて見下ろせば」とありますので、八坂寺の塔の上から見下ろしたのでしょう。「主典大夫が仁王堂」というのははっきりしませんけれども、恐らく、愛宕寺近辺の1つのお堂なのではないか。「塔の下天降り末社」というのは、八坂の塔の下から、祇園社の末社の牛王寺社というのがある。そこから祇園社までがお百度参りの起点になっていたところなのですけれども、そこであろうと考えられます。それで「南を打ち見れば」ということで、そこから南を見ると手水棚がある。そこで手水で手を洗って「御前」、清水寺の観音様の御前に恭敬礼拝して見下ろすと、そこに清水寺の滝があったというふうな歌です。ここにもやはり「石橋よ」と、東の橋詰めというので、この賀茂川を通る石橋の存在というものが非常に印象的な歌になっております。
 観音信仰というのは非常に当時盛んでして、32番、「観音験を見する寺 清水石山長谷の御山 粉河近江なる彦根山 間近く見ゆるは六角堂」というので、西国三十三箇所というのはこの後、少したつと成立するわけなのですけれども、そのちょっと前の時期ですね。しかし、ほとんどそこに歌われているようにまず清水寺、それから石山寺、南の方の大和の長谷寺、それから粉河寺。なぜか飛んで近江なる彦根山というのがあるのですけれども、これは現在、井伊氏によって建てられた彦根城というのがあるのですね。その前に彦根寺というのがありまして、これは西の寺、西寺とも言われていたお寺で、非常に繁盛していたというのが院政期の資料には残っているのですけれども、それを探して一度彦根中を歩き回ったことがあるのですけれども、名前が変わって、「北野寺」という名前で、別に移されて、北野神社の近くに置かれまして、「彦根寺」という名前まで変えさせられてしまいました。あと「間近く見ゆるは六角堂」、まあ京都のへそと言われている六角堂。そんなことを考えますと、「いづれか清水へ参る道」というのは起点はひょっとしたら六角堂あたりだったかなという気がします。
 このような観音信仰というものが盛んになるわけですけれども、33番「君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂河に河中に それを求めむと尋ぬとせし程に 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は」という、いい歌ですね。ぜひ賀茂川あたりを秋の夜に散策するときには、この歌を女性に向かって歌うといいのではないかと思うような歌になっておりますね。綾藺笠というのは武士が狩りをするときにつける笠なのですけれども、恐らく狩りには特定せずに、これは祭礼のときなどにはよくやりますので、綾藺笠を持ちながら、恐らく遊女なのか何なのかはよくわかりませんけれども、そういう風景が浮かんでくるようなものですね。
 それから賀茂川へ上っていきますと、賀茂社にかかわる歌はたくさんあります。「千早振賀茂の川辺の藤波は 懸けて忘るる時の間ぞ無き」、「御生引き引き連れてこそ千早振 賀茂の川波立ち渡りけれ」、「神山の麓を求むる御手洗の 岩打つ波や万代の神」、幾つかありますけれども、こういうふうなものは基本的には和歌に歌われている。和歌に歌われたものが今様に歌われて広く歌われるわけですね。
 和歌というのは「勅撰和歌集」を見てもちゃんときちんと名前、だれが作者であるか。作者がわからないときでもこれは詠み人知らずとあるのですけれども、「梁塵秘抄」にはそういう作者の名前はありません。いろいろな人の和歌が今様に歌われていくわけですね。そしてその場、その場で替え歌として歌われるわけで、さまざまな替え歌ができる。それが非常にいいことですので、「千早振」というのも、「賀茂」をいろいろなものに変えて歌えばそれなりに見えてくる。そういう中から浮かんでくるのはこの川辺の藤波であったりしまして、川というものがいかに大きくかかわってくるかということになります。
 その賀茂川からさらに上流になりますと貴船になります。貴船は賀茂社の若宮であると言われています。「思ふ事なる川上に迹垂れて 貴船は人を渡すなりけり」というように、この若宮の信仰ということとともに、川上に仏が迹を垂れて神となって、「人を渡すなり」というのは、その川を渡すということと同時に浄土へ渡してくれるのだという思いが込められておりますね。ですから、川の近くにある神に歌うということによって、浄土への願いというようなものがこれに込められているということになります。
 38番、そういう神ですから、さまざまな人々の願いがそこに込められてくる。ですから、「貴船の内外座は 山尾よ河尾よ奥深吸葛 白石白髭白専女 黒尾の前駆はあはれ内外座や」、何が何だかよくわけのわからないようですけれども、貴船の境内の内外に祭られている神をこういうふうに列挙したものですね。山尾、河尾、奥深吸葛、さらに白石白髭白専女、また黒尾の前駆はおそろしや、内外の社よと、こういうふうにありますけれども、鎌倉時代になると「覚禅抄」という書物の中に呪詛する神として「貴布禰、須比加津良、山尾、河尾、奥深」とこうなりますから、貴船の山奥で呪詛するために、あの人と添わせてくださいというふうな縁を求める歌もあれば、あの人とあの人の縁を切ってくださいというふうなものもある。
 そして、貴船は一方ではこの「川上に迹垂れ」と言いますから、龍神、川を司る神でもあるわけですね。ですから、雨が降っているときにはここには止雨の祈り、それから雨がないときには祈雨の祈りというふうなのが貴船ではよく行われております。
 和泉式部がここで歌ったというのも「物思へ沢の蛍も我身よりあくがれ出ずる魂かとぞ見る」と、夫に疎んぜられたことを嘆いた歌というものもあります。
 そうしたところ、神から「奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたちまちばかりものな思ひそ」と、ですから神に今様を捧げると、神も今様でもって答えてくれるということですね。このように今様を神にやりますから、こういうところには巫女というようなものが登場してくる。
 例えば春日神社は春日大宮という4つの主たる大宮と、もう一つ若宮というのがあるのですけれども、巫女がいるのは若宮の方なのですね。若宮が登場するのは大体10世紀の末ぐらいでありまして、そこで今様を捧げますと、若宮は巫女の口を通して今様でもって返してくれるという形になってきます。そういう若宮の祭が実は奈良の祭となっていまして、今も12月に若宮御祭というのが盛大に行われているわけです。
 このように京都周辺の地では今様を捧げられるような神社などが広く展開していくわけなのですけれども、河原と社ということですと非常に明快に示しているのが269番「大将立つといふ河原には 大将軍こそ降り給へ あづちひめぐり諸共に 降り遊ふ給へ大将軍」と、大将が立つという河原には大将軍に降りてほしい、あづちひめぐりというのは弓で的を射るのですね。的の後ろの方、その的がそれないようにやるのですね。それを経巡って一緒に降り遊んでほしい大将軍よという歌です。このように天から降ってくるのは河原に降りるのですね。そういう河原という場、神の遊ぶ場、神が降り立つ場、ですから、そこに神社というものが設けられる。それによって今度はその河原も鎮めてもらい、疫病も鎮めてもらう。そういう関係になっています。
 祇園舎も河原の背後の方に建てられておりまして、「祇園精舎の後には 世も世も知られぬ杉立てり 昔より山の根なれば生いたる杉 神の験と見せんとて」というので、祇園舎が賀茂川の河原のそのまま真っすぐ行った山の杉のところに建っているということですね。
 それから稲荷神社、393番、「彼処に立てるは何人ぞ 稲荷の下の宮の大夫御息子か 真実の太郎やな 俄にあか月の兵士に付い差されて 残りの衆生達を平安に護れとて」。この稲荷は3つ社がありまして、下の宮というのが稲荷の地主神、従来からあった神と言われております。その大夫の息子というのが警護のために突然呼び出されてやっているのだという話なのですけれども、この稲荷神社にしても祇園舎にしても、祭礼というのはどういう形で行われるかというと、賀茂川の東岸にありまして、京都の中(洛中)にある時期に迎え入れられて、これが祇園祭であったら祇園の御霊会の日になるわけですけれども、神輿迎えが行われる。そして、やがて再びそれが終わりますともとに戻っていくわけです。賀茂川の瀬を渡ってくるわけですね。ですから、賀茂川というのは非常に重要な役割をしております。ただ、橋は渡りません。橋は渡らなくて、祇園の祇園橋、四条の橋はあるのですけれども、わざわざ船橋をつくりまして、そこを神輿は渡ってくるようになっています。
 こういう話をしていると切りはないのですけれども、ほかにも川にかかわるものと言いますと、巨椋池が、今はもう干拓してなくなってしまいましたけれども、それから宇治川がありまして、平等院ですね。
 この平等院あたりを歌ったのが271番「内には神坐す 中を菩薩御前 橘小島のあだ主 七宝蓮華は鴛鴦剣」ということで、宇治の離宮明神、それから宇治橋の西の端の橘の小島というところの橋姫ですね。こういうものを歌った歌があります。
 それから、さらに宇治川をそのままずっと上っていきますと石山寺から琵琶湖ということになりまして、このあたりも琵琶湖というものを中心とした歌も幾つかありまして、その琵琶湖のところにも石山寺、それから比叡山の鎮守である日吉社。琵琶湖がいわば浄土の海と考えられまして、いろいろな歌が歌われているというふうに、今様というものを探っていきますと川、河原というものが非常に重要な意味を持っております。
 これはもちろん中世の社会にとっては川というものが重要な意味を持っていることから当然なのですけれども、特に今様にはそういうものが見えるということは強調されていいと思いますし、神仏集合を初めとする信仰の問題と河原というものは切っても切り離せない。しかし、そういうものが今は遮断されてしまいまして、何も関係ないかのようなのですけれども、かなり重要な意味を持っていたということで発表を終わらせていただきたいと思います。

○委員長
   どうもありがとうございました。
 またまたこれは思いがけないところにまた川の文学が広がって、たくさんあるのですね。
 この後白河法皇が集めた今様は大体京都、大阪のあたりの歌ですね。

○五味委員
   そうですね。ただ、もう一つは今様の根拠地というようなものは墨俣ですね。美濃、尾張の境の墨俣が傀儡、寄傀儡ですので、東国の歌もあることはあります。ただ、東国の歌の方には余り川とかかわる今様が多くはないようですけれども、京都の方ではこういうふうな川とのかかわり合いの歌が多いようです。
 

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