水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


名取川の歴史

名取川の歴史

伊達政宗の治政による、名取川と広瀬川を結ぶ「木流し堀」の開削や四ッ谷堰の工事により、名取川流域の新田開発(水田)が活発に行われました。河口には「あんどん松」なるものがあり、漁業が盛んな昭和初期には「船溜り」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、燈台代わりに松の先端に行灯を灯し、海の男達を無事港へと招き入れたといわれています。


貞山運河(東日本大震災前)


あんどん松(東日本大震災前)


名取川の歴史及び先人の知恵
「名取川」の名称の由来については、アイヌ語の「渓谷=ナイトリベツ」に語源を有する説と、昔は、下流部が入江であったため、アイヌ語の「静かな海=ニットリトン」に語源を有するという説があります。

仙台ゆかりの伊達政宗公は伊達62万石の城下町を築くにあたり、積極的に新田開発を行い、名取川下流域の水田開発も盛んに行われました。

一方、伊達政宗公は、家臣川村孫兵衛に命じ慶長元年(1596年)には、名取川・広瀬川を結ぶ「木流し堀」を開削し、山から伐りだした薪をその流れに乗せて運び、城に仕える家中に支給するとともに、慶長2~6年(1597年~1601年)には、阿武隈川~名取川を結ぶ全長約15kmにも及ぶ「木曳堀=貞山運河」の開削が行われ、仙台 城下町建設の物資の輸送と行商等、河川を活かした舟運が盛んに行われました。現在でも先人達の偉業をしのぶ貴重な財産として受け継がれています。



木流堀





ページの先頭に戻る