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常願寺川
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常願寺川の歴史
急流河川常願寺川 治水の歴史
中世~近世の治水―富山城下を守る―
戦国時代の常願寺川は、大山町馬瀬口地先で頻繁に決壊し、その度に富山城下が洪水の被害を被っていたため、当時の富山城主「佐々成政」は天正9年(1581年)に三面玉石張りの大堤防を築きました。
現在では、「佐々堤(さっさてい)」と呼ばれ、常西(じょうさい)用水の川底にその天端部を一部のぞかせるのみとなっています。また、江戸時代には、富山藩の六代藩主「前田利與(まえだとしとも)」が、富山城下を洪水から守るため佐々堤と同じ辺りに水防林として松苗を約6ha植栽しました。
現在は「殿様林(とのさまばやし)」と呼ばれ100本程度残っています。
佐々堤と常西用水
殿様林
ヨハネス・デ・レーケと常願寺川
常願寺川は安政5年の大地震により、上流の立山カルデラを形成する鳶山(とんびやま)一帯が大崩落し、それにより発生した河道閉塞がその後崩壊することにより、大量の土砂ととともに洪水流が下流域に流出し、これ以降、常願寺川は荒廃河川となりました。
明治24年(1891年)には、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケによって、常願寺川の大工事が計画されました。デ・レーケは、用水ごとにつけられていた取水口が堤防を崩れやすくしていると考え、農業用取水の統合による扇頂部での『合口』の計画を立てました。
また、河口が白岩川と1つであり土砂が堆積しやすい原因であると考え、新川掘削により白岩川との河口を分離し、大幅な引堤、堤防の改築等の治水計画を立案しました。これに基づき富山県は、河口から上滝までの本格的な改修工事に着手し、同26年(1893年)に完了しました。
ヨハネス・デ・レーケの改修計画図(写)
現在の常願寺川と白岩川の河口部
戦後の河川改修
昭和23年までは、北陸の河川における河川工法は木材と石の組み合わせによるもので、土石の流下が激しい急流河川では、6年ほどの耐久年数でした。
そこで、堤防、護岸、洪水流を制御するためにコンクリートを使用した巨大水制『ピストル型水制』が開発され、現在では全国の急流河川で利用されています。
また、昭和 24 年から同 42 年にかけて、タワーエキスカベータによる大規模な河床掘削を実施しました。
このとき川全体を掘るのではなく、土砂が最も溜まりやすい富山市三郷から立山町利田までの 5km の区間を重点的に掘り下げ、それより上流は掘った部分に土砂が溜まり、それより下流の土砂は自然の力で海へ流れ出る作用により全体として河床が下がるよう、天井川の解消を図りました。
タワーエキスカベータによる河床掘削
巨大水制による堤防、護岸及び洪水流の制御
霞堤について
常願寺川の堤防は、連続堤ではなく、他の扇状地河川でもみられる霞堤が用いられています。
霞堤は常願寺川の特性を活かした伝統的な治水工法であり、霞堤に対して上流の堤防が決壊した場合でも、霞堤の開口部から氾濫流を河道に戻し氾濫被害を軽減させる機能があります。しかし、道路や霞堤周辺の土地の利用により開口部が閉じている場合は、開口部から氾濫流を取り入れることができないので、その機能を十分に発揮されません。また、霞堤は洪水時に開口部から一時的に洪水を遊水させる洪水調節機能や本堤が決壊した場合の二線堤(にせんてい)としての機能などがあります。
常願寺川には14 の霞堤が確認されていますが、現在の霞堤の形状や堤内地盤高と河床高等から、氾濫水の戻し機能を有する霞堤は11 箇所、二線堤機能を発揮する霞堤は13 箇所となっています。
常願寺川の霞堤
「霞堤の碑」(富山城主佐々成政により
起工された霞堤の事跡を称え設置されたもの)
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