水管理・国土保全

  

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狩野川の歴史

狩野川流域の成り立ち

狩野川中流部に広がる田方平野は、伊豆半島のほぼ中央部を流れる狩野川により形成された沖積平野です。
ここは、氷河期も終わり海面が現在よりも数m高くなった約6000年前の縄文時代頃には広く入江となっており、古狩野湾を形成していました。
やがて海面が低下し始めると、山から運ばれた土砂が少しずつ堆積し、古狩野湾はしだいに狭まっていき、現在の田方平野が形成されました。

狩野川の歴史(沼津河川国道事務所HP)

狩野川流域の成り立ち




狩野川河道の変遷

下流部に狭窄部をもつという地形的特徴と多雨地帯を流域に抱えることから、古より幾多の洪水を発生させてきました。往時の狩野川が自由奔放に流れていた様は、源頼朝の流刑地「蛭ヶ小島」など、川にまつわる地名が各所に点在することからもうかがい知ることができます。
鎌倉時代には、大きな洪水のたびに流路を変えてきた狩野川の流れを、西に迂回させるという「守山の開削※」が行われたと伝えられています。

※「守山の開削」は、『狩野川放水路工事誌(S42)』、『「建設のあゆみ」沼津工事事務所』等にも記述がありますが、史実としての確認はとれていません

狩野川の歴史(沼津河川国道事務所HP)

狩野川河道の変遷(守山の開削)




狩野川放水路

狩野川放水路は、総延長約2,980m、分流堰、開水路、トンネル等から構成される水路施設です。トンネル部は三連構造であり、2つの中央部に開水路が存在します。
放水路は、通常、分流堰のゲートが閉められ通水していませんが、ゲートを開門することにより、狩野川本川の洪水流(計画流量4,000m3/s)を、中流域で最大2,000m3/s(25mプール4杯分)分流し、江の浦湾に放流することができます。
先人達からの念願であった狩野川放水路が完成し、治水の安全度は著しく向上し、その後の狩野川治水の要となっています。


狩野川放水路


狩野川放水路の放流状況

完成までの道のり
狩野川の治水事業は、昔から洪水に悩まされてきた流域の住民にとって、切実な願いでありました。明治、大正頃からたびたび狩野川放水路開削を中心とした狩野川改修促進運動が行われていました。
昭和に入って、国の直轄事業が始められ、放水路工事は、直轄以前から引き続いた様々な計画案や調査、請願運動、さらに戦争による中断などを経た後、昭和23年のアイオン台風の大出水を契機として、ようやく計画が具体化し、昭和26年に着工の運びとなりました。その間、用地問題や河口の漁業補償など、解決すべき点も多くありました。

着工後も昭和33年の狩野川台風による被害を受け、更に計画を見直すなどしています。
このような長い道のりを経て、昭和40年に放水路が完成しました。


墹之上掘削工事


放水路の計画見直し












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