豊川と東三河の歴史
豊川の流路は、かつては幾筋にもなって豊橋平野を流れていたと言われていますが、頻繁に洪水を繰り返し、沿岸の人々を悩ませていました。
その為、豊川中下流部では江戸時代より、霞堤と呼ばれる不連続堤が設けられ、それにより吉田(今の豊橋市)の城下町は洪水から守られ、陸上(東海道)交通 や水上交通の要衝として大いに栄えてきました。 また、川の流路が固定されたのに伴い、農地開発も進み、豊川の水は、松原用水や牟呂用水を通 じて沿岸の土地を潤してきました。 しかしながら、これらの土地は、大雨が降ると一面水浸しになっていましたが、豊川放水路が昭和40年に完成したことにより、沿川の洪水被害は格段に緩和されるようになりました。 また、豊川の水は昭和43年に完成した豊川用水により渥美半島等へも導かれ、利用されるようになりました。 このように東三河は、豊川の洪水と闘いながら、その恵みにより大いに発展してきました。 流域案内 |
大きく蛇行する豊川
牟呂用水
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かつての豊川
豊川の下流域は河岸段丘に挟まれた地形であり、河岸段丘の間を氾濫を繰り返しつつ、流路を変えながら平野を形成してきました。
縄文時代前期(紀元前4000年頃)の豊川河口部は、右岸に小坂井台地、左岸に牛川・豊橋段丘に挟まれた幅約4kmの入海になっていたとされています。 その後、入海内の洲が発達して湿地帯となるなど、豊川による三角州が次第に発達してきました。 奈良時代(710年~784)の豊川下流部は、所々に大きな中之島があり、潮の干満によって所々砂洲が顔を出す広大な入江となっていきました。 母なる豊川流れの軌跡 : 豊川改修60周年記念 |
豊川流路変遷図(豊川放水路工事誌より)
約1000年前の河口部の様子(津田保育園四十年のあゆみより)
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江戸時代前期の改修
1690年頃、豊川の洪水を正面から受ける楠木村と楽筒村の本堤防と、被害を最小化するとともに両村を半囲いで囲うことができる請堤を加えることでT字状とし、霞堤の原型が作られました。また、1715年頃には、本堤防と請堤ともほぼ完成し、豊川の霞堤が各地で築かれました。
生きている霞堤―豊川の伝統的治水システム (愛知大学綜合郷土研究所ブックレット (9)) |
本堤防と請堤
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霞堤地区の現況
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霞堤の位置図
現存する4霞堤の様子
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放水路事業
豊川では、洪水を霞から溢れさせることで中心市街地を水害から守ってきましたが、霞地区の農地開拓が進むことで、その被害も拡大してきました。そこで、豊川流域の洪水被害を根本的に解決する手段として考え出されたのが、下流部にもう一つの川(放水路)を作り、洪水時には二つの川で洪水調節を行うという計画でした。こうして完成したのが、全長6.6kmの豊川放水路です。
豊川放水路と豊川について |
豊川放水路改修前における河口付近の様子
豊川放水路(本川11.6k付近より撮影)
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難航した放水路計画と27年間の長期工事
昭和10年(1935)、「豊川改修ニ関スル促進建議書」が帝国議会で認可され、昭和12年には16か年の継続事業として豊川放水路工事が計画されました。
昭和18年12月には、前芝村大字加藤新田の用地がすべて整ったことから、昭和19年の新春早々には放水路左岸最下流の築堤並びに河道の掘削に着手するなど、順調な滑り出しを見せていました。しかし、第二次世界大戦の最中であり、戦局は日増しに悪化の一途をたどり、ついに同年の7月31日をもって工事中止の断が下され、以降、6年間にわたって工事が中断されました。 昭和34年9月の伊勢湾台風襲来時には、東海地方に大きな被害をもたらしました。豊川では幸いにも被害が少なかったのですが、伊勢湾台風を契機として豊川放水路計画も大幅な変更が行われました。 具体的には、土木研究所の模型実験の結果によって分流堰は可動堰に、下流部堤防は高潮堤になりました。また、放水路全川に高水護岸が施工されることとなりました。 豊川放水路は、静岡県の狩野川放水路(昭和40年)と広島市の太田川放水路(昭和42年)と並んで、建設省(現在は国土交通省)によって戦後に完成された「建設省直轄三大放水路工事」と呼ばれています。 難航した放水路計画、27年間の長期工事 |
昭和34年9月洪水(伊勢湾台風)における浸水状況(豊橋市大村)
昭和40年7月の竣工式
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