水管理・国土保全

  

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矢作川の歴史

室町時代(~1400年頃)までの改修

天正末期(1586~91)頃までの矢作川は、原始以来のいわゆる乱流そのもので、網の目のように沖積低地を分流しており、低地には自然堤防が次第に築造されていきました。14世紀に六名堤の築造と乙川の矢作川合流化が行われました。乙川の開削により、当時の岡崎城への舟運を利用した物資運搬の利便性が向上し、六名堤により乙川旧水路を締め切ることで、六ツ美地域の発展にも寄与しました。15世紀半ばには西郷氏等の本流堤防の部分的工事が行われましたが、現在のような河道になったのは、豊臣・徳川氏の統一権力による大規模工事によるものです。

矢作川改修六十周年記念誌

矢作川水系の流路変遷(室町時代)と現在の状況(乙川合流点付近)




江戸時代の改修

矢作川の大規模工事の初めは、文禄3年(1594)豊臣秀吉の命令で岡崎城主田中吉政が行った、中流域西部・南部の河道一本化工事です。
しかし、この工事によって、遊水地(妙覚池)などが消失したことで、水害が激増しました。そこで、慶長10年(1605)徳川家康が米津清右衛門に命じて、現西尾市矢作古川の分流点より米津町油ヶ渕流入地までの大地を開削して、現矢作川本流の川筋が築造され、舟運も可能となりました。

矢作川改修六十周年記念誌

矢作川新川開削区間と現在の状況(H19年度)




明治用水

明治用水は、明治12年1月に着工、明治13年4月に豊田市水源町から安城市東栄町の間、本流川11.5kmが完成しました。
引き続き同年5月に安城市池浦町から同市藤井町の間、東井筋11.4km、同じく池浦町より高浜町までの間、中井筋12.1kmが完成しました。
また、明治14年2月に、豊田市広美町から刈谷市衣崎町に至る間、西井筋14.3kmが完成しました。灌漑面積は7483haに及びます。

矢作川改修六十周年記念誌

明治用水の用水系統




矢作ダム

広大な三河平野を流れる矢作川は、明治・枝下の二大用水をはじめとする数多くのかんがい、あるいは、水力発電等において、地域に大きく貢献してきました。一方、洪水の脅威と不安定な流況は地域の開発の妨げとなることから、地域の安定した発展のため洪水調節と利水を合わせた、多目的ダムとして矢作ダムが建設され、昭和46年3月に完成しました。
平成12年9月の東海豪雨時には、約800m3/sの洪水調節を行い、下流被害の拡大を防ぎました。

矢作ダム管理所HP(矢作ダムの異常出水対応)

洪水調節中の矢作ダム




矢作古川分派施設

平成12年9月の東海豪雨など過去の洪水時に、矢作古川の計画分派流量を上回る流量が矢作古川へ分派し、矢作古川沿川では浸水被害が多発していました。そのため、矢作古川への分派量を200m3/sに制限する矢作古川分派施設の整備(河川整備計画にて位置付け)を進め、平成28年5月に同施設は完成しました。これにより、周辺地域の治水安全度の向上が期待されています。


完成した矢作古川分派施設





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