水管理・国土保全

  

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加古川の歴史

加古川の舟運

加古川の舟運は、1500年代後半の豊臣秀吉の時代に、政治や経済の中心が京都から大阪に移動したため、播磨の貢米を運ぶルートもそれに伴い変わり、発展しました。

舟運の航路開発は2期に分かれます。第1期(1594年)は、彦兵衛(ひこべえ)と三郎右衛門(さぶろうえもん)が高砂から大門までの航路を、阿江与助(あえよすけ)が大門から滝野までの航路を浚渫しました。第 2期(1604~1606年)は、阿江与助と西村伝入斎(にしむらでんにゅうさい)が滝野から船町、本郷までの航路を浚渫しました。こうして加古川筋の舟運は氷上郡本郷から滝野・新町を経て、高砂までが完通しました。

この舟運を利用して、池田氏は滝野と田高に関税(五分一銀)を徴収する船座を設置しました。特に、滝野には闘龍灘が存在するため、船荷の積み替えを行う重要な地点でした。

また、川沿いの各地に河岸とよばれる船着場と物資集散の町場が現れました。特に、滝野、新町、大門、市場等の河岸では、 3箇所の船着場があり、多数の商家が現れるなど、沿川きっての町場として繁栄しました。

このように、加古川の舟運は、大正2年に播州鉄道(現JR加古川線)ができるまで、人や物資の連続性を確保する重要な役割を果たしていました。

これらの歴史的背景より、加古川沿川に家屋が連担しました。








治水の概要

加古川の流れは古来より大洪水によってしばしば変わっており、その治水は、万治元年(1658)から同3年(1660)にかけて、当時の姫路城主・榊原式部大輔忠次により加古川右岸に築堤(「升田堤」)が始まりとされ、現在の本堤の基礎ともなっています。
 忠次は、築堤にあたって三つの理由をあげています。第一は、当時、加古川が升田の前から東西二瀬になり、下流では渡し場が二つもあって、参勤交代の諸大名をはじめ旅行者が難儀していたこと。第二は、下流の数ケ村が風雨のたびに洪水の被害に遭い苦労していたこと。第三は、二瀬を一つにして中央に堤防を築けば、従来の河床やその周辺で新田や畑が開けることです。
 築堤工事の規模は、底部の幅32.4m、高さ6.4m、上部の幅14.4m、延長約4kmと伝えられています。工事に要した人員は延べ60万人に及び、工期1ケ月余りという驚異的な速さで完成、荒れ地がつぎつぎに開墾されて藩に大きな利益をもたらしました。しかし、水害を抑えることはできず、出水があるたびに堤防の修理や被害者の救済が藩の年中行事のようになっていたようです。
























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