水管理・国土保全

  

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木津川の歴史

特有の歴史、先人の知恵の活用

木津川上流域の伊賀上野地域では、直下流の岩倉峡という狭窄部を一部開削して京・大阪との水運が行われたり、干害に備えてため池をたくさん作ったり、必要な時には上野城の壕の水を利用したりしていました。また、天平の頃、下流域の山城盆地には聖武天皇が繰り返した遷都のひとつ「恭仁京」(くにのみやこ)が存在し、この頃、木津川を越えて新京を造るための橋が渡されることになりました。

木津川の上流域には忍者の里として有名な伊賀上野地区があります。歴史的にみても伊賀上野は戦略上の重要拠点で豊臣の時代には東からの守りの要として筒井定次がこの地に上野城を築きました。
上野は木津川、服部川、柘植川の合流点にあたりますが、すぐ下流の岩倉峡に「銚子ヶ」と言われる大きな岩盤が流れをさえぎるように横たわっていたので、その上流は湖のようになっていました。

慶長年間(1596~1615)に筒井定次は土木家として有名な京都の豪商、角倉了以に要請して銚子口を取り除き、京・大阪への航路を開かせました。徳川の時代になると藤堂高虎がこの地を治め、今度は大阪からの守りを固める城として上野城の改築を実施しました。城の城郭は長さ30mと言われ、大阪城と肩をならべる規模です。

角倉は上野城下の長田橋まで川底をさらえ、水運は多いに盛んとなりました。しかし、安政元年(1854)の大地震で上野盆地は最大約1.5mも地盤沈下をおこし、岩倉峡の水はけが再び悪化します。








上野城


現在の岩倉峡



特有の歴史、先人の知恵の活用

そのため明治3年の「午年の水害」と昭和28年の「東近畿大水害」と大きな被害がでました。特に「午年の水害」では角倉の作った施設も破壊され、安政の大地震以後、水害が激化したため、その対策として囲堤の築堤、木津川・服部川の浚渫、合流点の岩除去など懸命の努力が払われたにもかかわらず、壊滅的な被害を受けた岩倉峡に近い上野盆地北西部は復旧をあきらめ、大規模な「避水移居(ひすいいきょ)」となり、657戸が集団移転したと記録されています。

一方で伊賀市の年平均降水量は三重県下でも最も少ない地域であり、農業用水の下流の村や重粘土の丘陵の村では深刻な水不足に悩まされてきました。これは三重県災害史に記される干害の大半が伊賀上野地域の記事であることからもわかります。藤堂藩ではさかんに新池の構築、古池の修繕を奨め、地理的条件からため池構築が無理な小田村に対しては、上野城の壕の水を落として、干ばつを防いだそうです。

現在でも旧上野市や旧阿山町、旧伊賀町などの流域には500を超えるため池があり、小雨のときには活躍しています。


昭和28年台風13号による浸水域




上野遊水地の運用

上野盆地は木津川、服部川、柘植川の3川が合流した直下流に岩倉峡という狭窄部があることから、洪水による浸水被害を常習的に受けていました。

上野遊水地では、大洪水時に洪水の一部を4つの遊水地(長田、木興、小田、新居)で一時的に貯留させ、流量調節機能の確保と伊賀市周辺の治水対策を目的として平成27年6月15日より運用を開始しました。

平成29年台風21号洪水では、4つの遊水地で約600万m3を貯留し運用開始後、初めて遊水地の効果を発揮しました。


上野遊水地全景(平常時)


上野遊水地(平成29年台風21号洪水時)




砂防事業の歴史

木津川流域の山地は、かつて大森林地帯でした。しかし、人文の発達と共に、薪炭あるいは用材の需要増加、特に奈良時代の神社・仏閣等の建築造営の用材として森林の乱伐が繰り返されるなど、森林は荒廃し、そこから流出した土砂は、下流の地域に幾多の災害をもたらしてきました。

その対策として、明治4年に「砂防五箇条」が通達され、明治11年からオランダ人技師デ・レーケの意見書により淀川修築工事の一環として、禿赭地(とくしゃち)を緑化する山腹工を主体とした直轄砂防事業が開始されました。

これが日本の砂防事業の始まりです。


山腹工施工前


山腹工施工直後












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