天神川は流域の住民に豊かな恵みをもたらしてきたと同時に、「中部の暴れ川」と呼ばれてきたように、災害の発生しやすい特性を持った川でもありました。
古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えており、「天神川変遷略図」によれば、条里制以前(飛鳥時代)では天神川本川(旧竹田川)と小鴨川・国府川は別の河川として描かれています。また、鎌倉時代(正嘉2年(1258))の「東郷庄絵図」では、天神川と考えられる河川が東郷池から流れ出て橋津川に合流しています。
その後、江戸時代(天文13年(1544))の洪水まで天神川は小田(こだ)付近で分かれ、本流は北条村と長瀬村の間を流れ、支流が北条の南端から由良川に注いでいたものと考えられています。(この年の「天文の洪水」は小鴨川の河道を大きく変え、現在の倉吉市田内において見日千軒(みるかせんげん)と呼ばれた城下町を一瞬のうちに押し流し、下流の北条平野を泥沼と化した大水害です。なお、見日千軒の人々が難を逃れて移り住んだのが現在の倉吉の地であると言われています。
この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、「天神川変遷略図」によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは北野天満宮がある天神山から東方の長瀬へ続く通称「石山さん」と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作ったもので、この時以後天神山の名から天神川と呼ばれるようになりました。この工事によって、永年の間、住民に多大の辛苦を与え続けた天神川下流部の河道変遷に終止符が打たれ、現在に至っています。