水管理・国土保全

  

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斐伊川の歴史

斐伊川の東流

 斐伊川は、「古事記」(712年成立)の「八岐大蛇(やまたのおろち)説話」にあるように、古来より氾濫を起こしては流域に多大な被害をもたらし恐れられてきたと伝えられています。かつての斐伊川と神戸川は、それぞれ「出雲大川(いずものおおかわ)」、「神門川(かんどのかわ)」と呼ばれ、出雲平野を西に流れ、共に神門水海(かむどのうみ)(現在の神西湖(じんざいこ)の前身)に注いでいた歴史があります。その後、寛永年間の大洪水を契機に斐伊川は流れを変え東流し宍道湖に注ぐようになったといわれています。


弥生時代の斐伊川(西流)


江戸時代の斐伊川(東流)



鉄穴(かんな)流し

 斐伊川流域は、古代から現代に至るまで、山陰地方の政治、文化、経済の中心として発展してきました。

 斐伊川本川上流域では昔から砂鉄を精錬して鉄を作る「たたら製鉄」が盛んで、その砂鉄採取のために山肌を削り土砂を川に流し、比重の違いで砂鉄分のみを分離する「鉄穴(かんな)流し」が行われたため、不要な土砂は斐伊川に流れ込み、下流域に大量の土砂堆積をもたらしました。


鉄穴流し(母岩の掘削)




天井川の形成

 斐伊川本川は大量の土砂堆積により砂河川となり、下流部は全国でもまれな「天井川」となりました。このため、斐伊川の東流以降、たびたび氾濫を繰り返し、流域住民に多くの試練と苦難を与えてきました。

 しかし、江戸時代の先人たちは40年~60年ごとに人工的に川を移しかえる「川違え(かわたがえ)」を行い、斐伊川の氾濫を防止するとともに、斐伊川のもたらす土砂で、宍道湖を干拓し、新田開発を行いました。

斐伊川の特徴(出雲河川事務所ウェブサイト)

天井川イメージ(出雲市街地)


川違えによる宍道湖の干拓(点線が宍道湖の汀線変化)



取水の知恵

 斐伊川本川の下流部は砂河川の天井川であるため、流水の多くが伏流水となり、農業用水の確保が重要な課題でした。

 このため、堤防沿いに小盛土を設け、表流水や伏流水を受けて取水する「鯰の尾(なまずのお)」と呼ばれる取水法が江戸期より続いており、現在もその機能を維持しています。また、砂を寄せて水を導く「水寄せ」等、先人の知恵と工夫に富んだ取水が古くから行われており、この取水方法は現在も引き継がれています。


斐伊川と並行する鯰の尾(島根県出雲市)


水寄せ(砂堤)の状況(斐伊川右岸15k付近)



斐伊川水系治水事業の3点セット

 斐伊川水系では、沿川状況等の社会的条件、河道状況等の技術的条件、経済性及び、これまでの経緯等を総合的に勘案して、上流部、中流部、下流部、湖部の流域全体で治水を負担することとし、洪水時の宍道湖の水位上昇量を低減するために、宍道湖への流入量を抑制するとともに、宍道湖からの流出量を増やします。

 宍道湖の水位は、流出入総量(ボリューム)に大きく影響を受けるため、この点を踏まえた抜本的な対策として、河川整備基本方針では以下に示す3つの柱を基本としています。

・上流部における尾原ダム及び志津見ダムの建設
・中・下流部における斐伊川本川から神戸川に洪水を分流する
 斐伊川放水路の整備
・湖部における大橋川の改修と宍道湖及び中海湖岸堤の整備



斐伊川水系治水事業の3点セット





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