水管理・国土保全

  

| 河川トップ | 川の歴史 | 主な災害 | 地域と川 | 自然環境 |   


緑川の歴史

緑川の歴史

緑川水系における治水事業の歴史は古く、加藤清正が天正16年(1588年)に肥後北半国の領主として入国以降、本格的に始められたとされ、熊本城下を洪水等から守るため、加勢川右岸に清正堤、緑川右岸に大名塘と呼ばれる堤防の構築や、御船川の流路の付け替え等を実施しました。さらに、轡塘により河川の合流点の堤防間(高水敷)を広くとり水勢を弱めて洪水をゆるやかに流すための工夫も凝らしています。



藩政時代の改修概要図




加藤清正による治水利水事業の歴史
清正堤
加藤清正は、入国直後から緑川における治水・利水対策に積極的に取り組みました。熊本城が築造されている熊本市側を洪水によるはん濫から防御するため、加勢川の右岸側に江津塘といわれる「清正堤」を築くとともに、それまで加勢川の支流に合流していた御船川の流れを新川の掘削により直接緑川に合流させるという難工事も行っています。


加勢川右岸の江津塘(清正堤)



轡塘
清正が多用した洪水軽減方法の1つに「轡塘」と呼ばれる河川の合流地点や水あたりの激しい部分に造られた河道内遊水地があります。緑川と御船川の合流点(桑鶴)を中心として設けられた轡塘は、その中でも大規模なものとなっており、左岸側の本堤を半円形に膨らませ、河岸には不連続の前堤を築き本堤と前堤の間に洪水流を溜めました。前堤の不連続部の洪水出入り口には竹を植え水の勢いを和らげる等の工夫もされています。



桑鶴の轡塘


利水施設の整備
鵜ノ瀬堰や麻生原堰(いずれも上益城郡甲佐町)に代表される数多くの灌漑施設を建設する等、今なお引き継がれる治水・利水施設の整備等を行い、現在においても清正公(セイショコさん)と呼ばれ多くの人々に親しまれています。


鶴ノ瀬堰のしくみ




近代治水の歴史

緑川水系の近代における治水事業は、大正元年の大洪水をはじめ水害がしばしば発生したことを契機に、大正14年から内務省による直轄事業として第一期改修工事に着手しました。御船川合流点から河口までの区間について、堤防の新設及び掘削を行ったほか、嘉永新川の拡幅及び背割堤による加勢川下流部と緑川との分離工事等を実施して昭和17年に竣工しています。


緑川第一期改修概要図




戦後の治水事業

昭和17年の第一期改修工事完了後、昭和18年9月洪水等に鑑み、昭和37年から再び直轄事業として蓍町橋地点(現在の城南地点)の計画高水流量を3,650m3/sとし、甲佐町から御船川合流点までの区間及び御船川を事業区域に加え、第二期改修工事に着手しました。当計画は、昭和39年の新河川法施行に伴い、昭和41年に策定された工事実施基本計画に引き継がれ、この計画に基づいて、緑川ダム(多目的ダム)の建設や、堤防整備及び護岸の設置等を実施してきました。


緑川ダム





ページの先頭に戻る