タイトル 授産場について(繊維関連)

  • 長崎県
ジャンル:
史跡・城跡 地域の特産物
媒体利用区分:
看板
ワード数:
250以下
作成年度:
2018年
地域協議会名:
長崎市多言語解説協議会

Textile Production

Fabrics for Foreigners and Western Uniforms

Spinning Wheel (Father de Rotz Memorial Hall)

German Medias Knitting-Machine (Father de Rotz Memorial Hall)

Fabric and Tabi (Split-Toe Socks) Made at the Vocational Center (Father de Rotz Memorial Hall)

Aid Center Uniform Designed by Father de Rotz (Father de Rotz Memorial Hall)


On the second floor of the workshop, women manufactured textiles using cotton looms imported from France. They produced sheets, towels, napkins, handkerchiefs, and other products mainly in response to demand from foreigners living in Nagasaki. The women also produced Japanese-customized Western working clothes for the staff of the Aid Center. These clothes were more convenient to wear for work than were Japanese traditional clothes. At that time, Western clothes were mostly associated with high-class people; however, the uniforms worn by the Shitsu Aid Center workers were designed for practical considerations such as freer body movement rather than to display social status.

紡織品生產


以外國人為主要客群的布製品及西式制服

當時的紡車(多羅神父紀念館收藏)

當時德國製造的針織機(多羅神父紀念館收藏)

在授產場製造的布料和足袋(多羅神父紀念館收藏)

多羅神父設計的救助院制服(多羅神父紀念館收藏)


婦女們於授產場二樓,使用法國進口的棉織機生產紡織品。她們依照居於長崎的外國人之所需,製作床單、毛巾、餐巾、手絹等產品。此外,還為救助院的工作人員特製經過改良、兼具日式風格的西式工作服。這些工作服比起日本傳統服裝,更適合於做業時穿著。當時西服被認為是上流階層人士的衣著,但出津救助院的制服並非為了展現社會地位,而是為了行動靈活,基於實用性的考量設計而成。

纺织品生产


面向外国人的布制品及西式制服

当时的纺车(多罗神父纪念馆收藏)

当时德国制造的针织机(多罗神父纪念馆收藏)

在授产场制造的布料和足袋(多罗神父纪念馆收藏)

多罗神父设计的救助院制服(多罗神父纪念馆收藏)


在授产场二层,妇女们使用法国进口的棉织机生产纺织品。她们根据居住于长崎的外国人的需求,制作床单、毛巾、餐巾、手绢等产品。此外,妇女们还为救助院的工作人员特制经改良、兼具日式风格的西式工装。这些服装比起日本传统服装,更易穿着做业。当时西服被认为是上流阶层人士的穿着,但出津救助院的制服并非为展现社会地位,而是为了行动灵活,基于实用性的考量设计而成。

授産場について(繊維関連)

外国人向けの布製品と救助院の制服

当時の糸車(ド・ロ神父記念館蔵)

当時のドイツ製メリヤス編機(ド・ロ神父記念館蔵)

当時製造していた生地と足袋(ド・ロ神父記念館蔵)

ド・ロ神父が考案した救助院の制服(ド・ロ神父記念館蔵)


授産場の二階では、フランスから輸入された木綿織機を使い、女性が織物を生産していました。彼女達は、長崎に住んでいる外国人の需要に応えて、シーツ、タオル、ナプキン、ハンカチなどを生産していました。

また、彼女達は、救助院で働く人たちが着るために、日本風に改良を加えた西洋の作業着も生産していました。この作業着は、日本の伝統的な衣服に比べて、仕事をする際の利便性が高いものでした。

この時代、洋服は上流階級の人々が着るものだとされていましたが、出津救助院の制服は、そのような社会的な地位を示すために作られたわけではなく、作業中により楽に体を動かせることなどの実用的な考慮からデザインされたものでした。

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