タイトル 松山酒造

  • 京都府
ジャンル:
史跡・城跡 地域の特産物
媒体利用区分:
Webページ
ワード数:
250以下
作成年度:
2019年
地域協議会名:
伏見観光プロジェクトチーム

Meikun (Matsuyama Shuzō)

Matsuyama Shuzō was founded in 1923 in Nabari, Mie Prefecture, and in 1958 it became a part of the Ōkura Shuzō group, today’s Gekkeikan. Before moving to Fushimi, Matsuyama Shuzō produced about 216 kiloliters of sake annually.

In 1959, Matsuyama Shuzō rehoused its entire production process in Ōkura Shuzō’s Kitagura brewery in northern Fushimi. Production increased over the next five years until Matsuyama Shuzō reached an annual production of 900 kiloliters under the brand name “Meikun.” The name Meikun translates roughly as “in praise of the wise monarch who creates a bright world for all.”

In 1967, the company moved again, to Ōkura Shuzō’s Taishōgura. To this day, the company brews inside the Taishōgura building, making traditional styles of sake. The Taishōgura building was built on the site of the Shimazu clan’s Fushimi lodgings, where Sakamoto Ryōma (1836–1867) sought refuge from armed government forces during the Second Teradaya Incident of 1866.


明君(松山酒造)


松山酒造於1923年在三重縣名張市創立,1958年加入大倉酒造集團,即現時的月桂冠。在遷至伏見之前,松山酒造每年生產清酒216000公升。

1959年,松山酒造將所有生產工序遷至位於伏見北部的大倉酒造北藏。

此後五年間,松山酒造的品牌「明君」生產量逐漸增加,達到年產900000公升。「明君」這一名字,意為「讚美為萬民創造光明世界的賢明君主」。

1967年,松山酒造再次遷至大倉酒造的大賞藏。至今,松山酒造仍在大賞藏內釀制傳統清酒。大賞藏建在過去的島津藩的伏見住宅區內。1866年,阪本龍馬(1836-1867)在寺田屋第二次遇襲,從幕府派出的捕快手中逃出後就是在此地避難。

明君(松山酒造)


松山酒造于1923年在三重县名张市创立,1958年加入大仓酒造集团,即现在的月桂冠。在迁至伏见之前,松山酒造每年生产216千升清酒。

1959年,松山酒造将所有生产工序迁至伏见北部的大仓酒造北酒厂。

此后五年间,松山酒造品牌“明君”的生产量逐渐增加,达到年产900千升。“明君”这一名字,意为“赞美为万民创造光明世界的贤明君主”。

1967年,松山酒造再次迁至大仓酒造的大赏酒厂。至今,松山酒造仍在大赏酒厂内酿制传统清酒。大赏酒厂建在过去岛津藩的伏见住宅区内。1866年,坂本龙马(1836-1867)在寺田屋第二次遇袭,从幕府派出的捕快手中逃出后就是在此地避难。

明君(松山酒造 )

1923年に三重県名張市で創業した松山酒造は、1958年現在の月桂冠である大倉酒造グループの一員となった。伏見に移転するまで、松山酒造は年間216キロリットルの日本酒を生産していた。

1959年、松山酒造は伏見北部にある大倉酒造の北蔵に全ての生産工程を移転した。

その後5年間、ブランド名「明君」の下で松山酒造の生産量は順次増大し、年間900キロリットルに達するまでになった。明君という名前は、「万民のため明るい世をつくらんとする賢明なる君主を讃える」と大まかに訳される。

1967年、同社は再び大倉酒造の大賞蔵に移転した。 今日まで、同社は大賞蔵の建物内で醸造を行い、伝統的な酒造りを行っている。大賞蔵の建物は、島津藩の伏見宿の敷地に建てられている。坂本龍馬(1836~1867)は、1866年、寺田屋における2回目の襲撃事件で幕府の捕手からこの地に避難した。


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