大原と文学(百人一首)
平安時代の大原は、都の喧騒を離れた、静かな山里でした。一説によると、9世紀の後半、この土地に1人の皇子がたどり着いています。彼は当時の天皇の第一皇子でしたが政治的な争いに敗れ、出家して僧侶となっていました。その惟喬皇子koretaka no mikoのもとに親しく仕えていたのが、日本文学を代表する天才歌人の1人、在原業平ariwara no narihiraでした。
「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは」wasurete wa / yume ka to zo omou / omoikiya / yuki fumi wakete / kimi o min to wa(現実を忘れて、これは夢なのではないかと思ってしまう。まさか、山道の深い雪をかき分けてあなたをお訪ねする日が来るなんて、思いもしなかった)
この、業平が山里の皇子を訪ねたときの歌とされる和歌は、「皇子の悲しい運命が信じられない」という悲痛な嘆きで満ちてます。
しかしやがて、大原に自ら望んで住む者が現れるようになりました。宮廷社会のわずらわしさを嫌い、仏教のもとでの心の平穏を求める出家者たちが、大原に住むようになったのです。彼らは大寺院に所属せず、自然の中で孤独に修行する道を選びました。
彼らの中には、和歌などの文学にもすぐれた才能を発揮する者が現れました。たとえば11世紀の後半には、良暹ryozenという僧が歌人として活躍しました。
彼の代表作 「寂しさに宿を立ち出でてながむればいづこも同じ秋の夕暮れ」sabishisa ni / yado o tachi idete / nagamure ba / izuko mo onaji / aki no yugure (さびしさを感じて家の外に出てあたりを眺めてみると、どこも見ても同じように、秋の夕暮れのさびしい風景が広がっていた)
は『百人一首』という有名なアンソロジーに選び入れられており、現代でも広く知られています。
このように、大原で活躍した歌人たちの中には、静かでさびしい情景を淡々と表現することに長けた作者がいました。彼らの和歌はけして華やかではありませんが、心に沁みわたる魅力を持っています。実は仏教の教えは虚構や飾り立てた言葉遣いを禁じており、文学は仏教の教えと矛盾してしまう可能性も持っていました。大原の歌人たちは、信仰と文学を両立する困難な道を進む中で、心というものを深く見つめていったのでしょう。
こうした「さびしさ」「静かさ」「澄んだ心」のシンボルとして、大原という地名は定着してゆきます。和歌をはじめとする古典文学作品の中で、大原という地名は大切に愛されてゆきました。
現代でも大原には豊かな自然が残っています。厳しくも美しい自然は、かつてこの土地で心静かに暮らしていた人々のことを思い起こさせてくれるでしょう。