Title Shuri Castle and the Kingdom of Ryukyu

  • Okinawa
Topic(s):
Historic Sites/Castle Ruins World Heritage (Natural or Cultural)
Medium/Media of Use:
Web Page
Text Length:
501-750
FY Prepared:
2020
Associated Tourism Board:
ryukyuokokunogusukuoyobikanrenisangun sekaiisantoroku20shunenkinenjigyo jikkoiinkai

首里城と琉球王国


首里城は、琉球王国で1469年から1879年まで続いた第二尚氏王朝時代に建てられた中で最大規模を誇るモニュメント的建築物です。この場所にはそれまでも城があったと考えられていますが、その規模と重要性が大きく拡大したのは第二尚氏の統治下のことでした。


沖縄は激動の歴史を歩んできました。中国、日本本土、そして朝鮮半島という、琉球王国より強大な勢力に囲まれて、それらからの影響をどのように受け止めるべきか歴代の王が模索する中、繁栄と衰退を繰り返してきたのです。琉球は、14世紀の三山時代に、多くの独立した武将が率いる体制から、3つの国に分割された体制に移行しました。そして1429年には第一尚氏王朝のもとで統一された王国となりました。第一尚氏王朝の最後の王であった尚徳(1441–1469)が子孫なきままクーデターで殺されたことで、朝廷は尚円(1415–1476)を王に選出し、第二尚氏王朝を打ち立てました。第二尚氏王朝の3代目の王となる尚真(1465–1526)の統治のもと、琉球王国では長い平和と繁栄が続きました。尚真は文化活動を促進し、那覇の港のインフラを改善し、琉球王国の海外との交易を大幅に拡大しました。また尚真は、多くのモニュメント、寺院、邸宅、庭園、そして橋などの建築を指揮しました。その中で特筆すべきは首里城の拡張と美化です。


尚真の後継者はいずれも、尚真ほどの平和、繁栄、そして文化的成果を実現することはできませんでした。しかし首里城は、王朝の宮殿、そして琉球諸島の行政と文化の中心地であり続けました。沖縄が日本に併合された1879年まで、王族は首里城を居城とし続けました。王族が去ってからは、首里城は兵舎として、そして学校として使われ、1925年には神道の神社になりました。


グスクとは

首里城のようなグスクは、12世紀から16世紀までの繁栄の時代のシンボルです。この時代に、琉球諸島は異なる国々に分かれていた状態から統一王朝に発展し、独立国として海外との交易を盛んに行いました。首里城に加えて、現在も沖縄に残る主な城跡には、今帰仁城、座喜味城、勝連城、そして中城があり、どれもまとめてユネスコの世界遺産に登録されています。首里城に関する史料は詳細に残されていますが、その他のグスクのほとんどに関してはほとんど歴史史料が残っておらず、建設や用途に関しては多くの謎が残っています。しかし明確なこととして、グスクには防衛とスピリチュアルな目的の両方があり、そこに軍事関連施設、居住施設、そして儀式用の施設が備えられていました。どの城壁も石灰岩で、オリジナルの木造構造物はほとんど、または全く残っていませんが、考古学や歴史学の研究によって、最重要の建築物の規模と地取り、そしてそこに暮らした人々の生活様式に関してはかなり解明されています。


日本の城も琉球の城も、防衛用の廓が何重にも配置され、最も高いところが最も安全になるように設計されています。しかし、琉球の城の城壁は、多くの場合波打って有機的な形態ですが、日本の城はより厳格な直線によって構成され、角は尖っています。さらに、琉球の城には、日本本土の城とは異なり、防衛用の複数階建ての木造の櫓はありませんでした。


首里城の構造

首里城は、最も高いところで海抜約130メートルの大きな丘の上に建設されました。周囲の地形をパノラマ的に見渡せること、そして淡水が湧いたことから、この場所は城の建築に適していました。首里城には当初、1つの主要な廓しかありませんでした。その外側に防衛用の廓が追加されたのは、16世紀中頃のことです。有機的な曲線を描く防衛用の城壁は、3メートルの厚さの琉球の石灰岩を6から15メートルの高さに隙間なく積み上げて作られています。琉球王国の最重要の儀式用、居住用、そして行政関連の建築物は、内側のゆったりとした段状の廓の中に配置されました。正殿もその1つです。これらの建築物は、東から西に走る軸に沿って作られた中庭群の周りに群をなすように建てられました。


最も栄えた時代には、首里城には13の門がありました。そのうち4つの門は、防衛用の城壁に切り込みを入れて大きな石のアーチを設置したもので、これは間違いなく中国の様式によるものです。他の門では、日本風の特徴的な設計、つまり城壁に入れた切り込み全体の幅の木造の門番小屋を作るという設計になっていますが、門番小屋の屋根は中国の様式になっています。門楼やその他最も重要だった建築物には、赤い漆が塗られました。首里城には、京の内と呼ばれる、儀式に用いられる神聖な木の生えた大きな区画があったことが特徴で、京の内にはいくつかの石壁に囲まれたエリアがあり、ここで祈りがささげられました。これらのエリアは、国の繁栄にとって重要であると考えられていました。そのようなエリアは、首里城の城壁の中に約10ヶ所設けられていました。


重要な文化の中心地


第二尚氏王朝の統治のもとで、首里城周辺の地域は繁栄し、国際色溢れる文化、行政、そして金融の中心地となり、また教養のある王朝の高官や貴族がコミュニティーを形成するようになりました。首里城周辺の地域では、大規模な水関連の見所や橋などを取り入れて、巧みに景観整備が行われました。近くには、重要な寺院やその他の宗教関連施設、それに豪華な宮殿や貴族の大邸宅が建設されました。海外との交易、教育、芸術、および工芸品の生産を担当する重要な施設も、首里城近くに作られました。


琉球王国は中国および日本と緊密な関係にあり、中国と日本からの使節団は外交の重要な一環として首里城を訪れました。そのため、首里城は海外からの文化の影響を真っ先に受ける中心地となり、様々な影響が独特の形で組み合わされて進化しました。それは、首里城の設計や技術的要素にも反映されています。全体的に、首里城の儀式用の空間は、北京の紫禁城をモデルに設計されました。そのため、中国の宮殿の建築様式から要素やモチーフが借用されています。日本の設計原理に基づいて建設された重要な建築物もあり、また朝鮮半島に前例を見いだすことができる要素も見られます。しかし、迫力のある要塞の城壁や廓の機能的な地取りは、琉球独特のものです。


繰り返される火災と再建

首里城は5回焼失しており、繰り返し再建されてきました。1453年、1660年、そして1709年に焼失し、1945年5月の沖縄戦では艦砲射撃で壊滅的被害を受けました。いくつかの重要な建築物、石垣、そして門の精緻な復元作業は1992年に完了しましたが、2019年10月の大規模な火災で正殿やその他いくつかの建築物が破壊されました。現在それらの建築物を再建する努力が行われています。


首里城與琉球王國


首里城是琉球王國「第二尚氏王朝」(1469-1879)最了不起的建築里程碑,雖說有觀點認為在此之前這裡就建有城,但直到這一王朝時期,首里城的規模和重要性才大幅提升。

沖繩的歷史波瀾動盪,一代又一代統治者在中國、日本本島、朝鮮半島等周遭強大政權的影響下努力求存,享受過繁榮,也經歷過衰微。西元14世紀前後,琉球擺脫「群雄割據」,進入山南、中山、山北三大政權並立的「三山時代」,1372年(明洪武五年)至次年,三國相繼開啟了琉球政權與中國長達500餘年的往來歷史。

1429年,三國統一,「第一尚氏王朝」建立,1469年,第一尚氏王朝滅亡,最後一位國王尚德王(1441-1469)未留下子嗣。金丸是出身伊是名島的農夫,經朝廷推舉即位,建立「第二尚氏王朝」,改稱尚圓王(1415-1476),繼續保持著與明王朝的關係。

在第二尚氏王朝第三任國王尚真(1465-1526)的統治下,琉球王國享有了一段長期的和平與繁榮,尚真鼓勵發展藝術,推動那霸港周邊的基礎設施建設,大力拓展國際貿易。他還大興土木,樹碑立廟,修建住宅、園林、橋樑,并完成了首里城的擴建與修整。

儘管尚真王的繼承者再也沒能重現這份和平與繁榮,也不曾企及當年的文化成就,但在1879年琉球改名「沖繩」歸入日本之前,首里城始終是琉球王國的宮廷所在地,更是琉球群島的政治、文化中心。王室遷出後,這座古城先後被改作軍營、學校,最終在1925年成為神社。


グスク(Gusuku)是什麽?

グスク(Gusuku),即琉球王國的城,大多數建成於12至16世紀,和首里城一樣,昭示著那個時代的繁榮興盛。那時的琉球群島由分裂割據走向大一統王國,享有獨立的主權,海外貿易欣欣向榮。

除首里城外,沖繩境內現存的主要古城遺址還包括今歸仁城、座喜味城、勝連城、中城城等,它們均已被收入聯合國教科文組織(UNESCO)世界遺產名錄。

首里城的文獻保存相當完善,可其他古城遺址卻少有歷史記錄留存,關於其他古城的建築結構和用途,還有許多謎題未解。但能夠確定的是,這些古城都具備著軍事防禦和精神信仰中心的雙重功用,軍事、住宅和儀典設施一應俱全。古城共同的特徵是石灰岩城牆,雖然當年的木結構建築幾乎都沒能保留下來,但考古和歷史研究已經為我們清晰勾勒出了其中主體建築的規模、佈局,以及當時城中居民的風俗習慣和日常生活方式。

日式和琉球式的古城有許多共通之處,比如:都被設計成多重封閉結構,每一重都具備防禦功能,稱為「郭」;都建於地勢最高處以策安全。但琉球古城的城牆通常呈現自然的動態曲線走勢,日式古城則多為銳利的直線尖角形態。此外,琉球古城也沒有日本本島古城那樣高大的多層防禦式木構「櫓」(即瞭望塔、箭樓)。


首里城的構造

首里城修建在一座顯眼的小山上,最高點海拔130公尺。一覽無餘的開闊視野和淡水水源的存在,讓小山成為修建城堡的理想地點。

古城最初只有「內郭」,直到16世紀中期才在週邊增加了環形「外郭」。自然蜿蜒的城牆採用琉球出產的石灰岩修築,牆體嚴絲合縫,厚度約3公尺,高度6到15公尺不等。城牆環繞下的內郭建在呈階梯狀的寬廣區域,庇護著琉球王國最重要的朝堂、宮殿和儀典場所,其中就包括被稱為「正殿」的核心主殿。城內所有建築都沿東西向中軸線分佈,軸線本身則由一系列庭院組成。

全盛時期的首里城共有13座城門,其中4座是在城牆牆體上開鑿出的拱形大石門,為明顯的中式風格。其他城門則是典型的日式木門樓,銜接於兩段城牆之間,上覆中式屋頂。門樓和重要建築都漆成紅色。

首里城內最知名的是一個包括大型儀典場所和神聖樹林在內的區域,名叫「京之內」。其中散佈著幾處石頭建築的祈禱祭拜點,均為關係著整個王國隆盛的重要所在,整個古城郭內共有約10處這樣的祈禱點。


重要的文化中心

第二尚氏王朝時期,首里城周邊區域蓬勃發展,成為了一大國際化中心,集東方文化、政治與經濟為一體,文雅博學的政府官員和高門貴族大都聚居於此。

城周邊巧妙地點綴著流水小橋,景色愈發宜人;不遠處建起了寺廟和其他宗教設施;堂皇的宮殿和豪華的貴族宅邸紛紛拔地而起;專司海外貿易、教育、藝術以及工藝品製造的機構也都簇擁在首里城周圍。

琉球王國與中、日兩國關係密切,兩國使臣都曾正式造訪首里城,這也令其成為了外來文化交匯的中心,逐漸形成了獨具一格的文化。這種融合性在首里城的設計與工藝上也體現得淋漓盡致。例如,城內最具儀式性的區域總體說來是效仿北京紫禁城的結構與設計,同時運用了大量的中國宮殿建築的元素和主題;而另有一些重要建築則遵循日式設計原則,在某些地方又不時能看到朝鮮半島建築的影子。但雄偉的城牆和城郭的功能佈局卻是道道地地、獨一無二的琉球風格。


浴火與重生的輪迴

首里城曾五次被毀,又不斷重生,於1453年、1660年和1709年先後三次遭遇火災,1945年5月又在沖繩島戰役中經受了毀滅性的海上轟炸。1992年,幾處主要建築得以精心修復,石頭城牆和城門也完成重建。然而,2019年10月的一場大火再次將正殿與周邊若干建築付之一炬,修復重建工作如今正在進行中。

首里城与琉球王国


首里城是琉球王国“第二尚氏王朝”(1469-1879)最了不起的建筑丰碑。虽有观点认为此前这里就建有城堡,但直到这代王朝,它的规模与重要性才得到极大提升。

冲绳的历史波折动荡,一代又一代统治者在中国、日本本岛、朝鲜半岛等周遭强大政权的影响下努力求存,享受过繁荣,也经历过衰微。公元14世纪前后,琉球摆脱“群雄割据”,进入山南、中山、山北三大政权并立的“三山时代”,1372年(明洪武五年)至次年,三国相继开启了琉球政权与中国长达500余年的往来历史。

1429年,三国统一,“第一尚氏王朝”诞生。1469年,第一尚氏王朝灭亡,最后一位国王尚德王(1441-1469)没有留下子嗣。金丸是一名出身于伊是名岛的农夫,他经朝廷推举即位,建立“第二尚氏王朝”,改称尚圆王(1415-1476),继续保持着与明王朝的关系。

在第二尚氏王朝第三任国王尚真(1465-1526)的统治下,琉球王国享有了一段长期的和平与繁荣。尚真大力提倡艺术发展,并推进那霸港周边的基础设施建设,积极拓展国际贸易。他还大兴土木,树碑立庙,修建住宅、园林、桥梁,并完成了首里城的扩建与整修。

尽管尚真王的继承者再也没能重现这份和平与繁荣,也不曾企及当年的文化成就,但在1879年琉球改名“冲绳”归入日本以前,首里城始终是琉球王国的宫廷所在地和琉球群岛的政治、文化中心。王室迁出后,这座古城先后被改作军营、学校,最终在1925年成为神社。


グスク(Gusuku)是什么?

グスク(Gusuku),即琉球王国的城堡,大多建成于12至16世纪,同首里城一样,昭示着那个时代的繁荣兴盛。那时的琉球群岛由分裂割据走向大一统王国,享有独立的主权,海外贸易欣欣向荣。

除首里城外,冲绳境内现存的主要古城遗址还包括今归仁城、座喜味城、胜连城、中城城等,它们均已被收入联合国教科文组织(UNESCO)世界遗产名录。

首里城的文献保存得相当完善,其他古城遗址却少有历史记录留存,关于它们的建筑结构和用途,还有许多谜题未解。但有一点可以明确,这些古城都具备军事防御和精神信仰中心的双重功用,军事、住宅和仪典设施无一或缺。石灰岩筑就的城墙是它们共同的特征,虽然当年的木结构建筑几乎都没能保留下来,但考古和历史研究已经为我们清晰勾勒出了其主体建筑的规模、布局,以及当时城中居民的风俗习惯和日常生活方式。

日式和琉球式的古城堡有许多共通之处,比如:都被设计为多重封闭结构,每一重都具备防御功能,称为“郭”;都建于地势最高处以策安全。但琉球古城的城墙通常呈现自然的动态曲线走势,日式古城则多为锐利的直线尖角形态。此外,琉球古城也没有日本本岛古城那样高大的多层防御式木构“橹”(即瞭望塔、箭楼)。


首里城的构造

首里城修建在一座显眼的小山上,最高点海拔130米。一览无余的开阔视野和淡水资源的存在使其成为了修建城堡的理想地点。

古城最初只有“内郭”,直到16世纪中期才在外围增加了环形“外郭”。自然蜿蜒的城墙采用琉球本地出产的石灰岩修筑,墙体严丝合缝,厚度约3米,高度6到15米不等。城墙环绕下的内郭建在呈阶梯状的宽广区域,庇护着琉球王国最重要的朝堂、宫殿和仪典场所,其中就包括被称为“正殿”的核心主殿。城内所有建筑都沿东西向中轴线分布,轴线本身则由一系列庭院组成。

全盛时期的首里城共有13座城门,其中4座是在城墙墙体上开出的拱形大石门,为明显的中式风格。其它城门则是典型的日式木门楼,衔接于两段城墙之间,上覆中式屋顶。门楼和重要建筑都漆成红色。

首里城内最知名的,是一个包括大型仪典场所和神圣树林在内的区域,名叫“京之内”。其中散布着几处石头建筑的祈祷祭拜点,它们被视为关系着整个王国隆盛的重要场所。整个古城郭内共有约10处这样的祈祷点。


重要的文化中心

第二尚氏王朝时期,首里城周边区域蓬勃发展,成为了一大国际化中心,集东方文化、政治与经济为一体,文雅博学的政府官员和高门贵族大都聚居于此。

城堡外围巧妙点缀了流水小桥,景色愈发宜人;不远处建起了寺庙和其他宗教设施;堂皇的宫殿和豪华的贵族宅邸纷纷拔地而起;专司海外贸易、教育、艺术以及工艺品制造的机构也都簇拥在城堡周围。

琉球王国与中、日两国关系密切,两国使臣都曾正式造访首里城,这也使得它成为了外来文化交汇的中心,逐渐形成了独具一格的文化。这种融合性在首里城的设计与工艺上也体现得淋漓尽致,例如,城堡内最具仪式性的区域,总体上是效仿北京紫禁城的结构与设计,同时大量运用了中国宫殿建筑的元素及主题;而另有一些重要建筑则遵循日式设计原则,在某些地方又不时能看到朝鲜半岛建筑的影子。但雄伟的城墙和城郭的功能布局却是地地道道、独一无二的琉球风格。


浴火与重生的轮回

首里城曾五次被毁,又不断重生。它在1453年、1660年和1709年先后三次遭遇火灾,1945年5月又在冲绳岛战役中经历了毁灭性的海上轰炸。1992年,几处主要建筑得以精心修复,石头城墙和城门也完成重建。然而,2019年10月的一场大火再次将正殿与周边若干建筑付之一炬,修复重建工作如今正在进行中。

Shuri Castle and the Kingdom of Ryukyu


Shuri Castle is the greatest architectural monument of the Second Sho Dynasty of the Kingdom of Ryukyu, which lasted from 1469 to 1879. While a castle is believed to have existed on the site even earlier, it was under the dynasty’s rule that its size and importance greatly expanded.


The history of Okinawa is tumultuous, with periods of prosperity and decline as rulers struggled to accommodate the influence of the larger powers that surrounded the kingdom: China, mainland Japan, and Korea. Ryukyu transitioned from being led by many independent warlords to a tripartite division in the fourteenth century called the Sanzan (“Three Mountains”) era, and then to a unified kingdom under the First Sho Dynasty in 1429. When the last king of the First Sho Dynasty, Sho Toku (1441–1469), was killed in a coup d’état, leaving no heir, the royal court elected Sho En (1415–1476) as king and established the Second Sho Dynasty. Under the stewardship of the dynasty’s third king, Sho Shin (1465–1526), the Kingdom enjoyed a long period of peace and prosperity. Sho Shin encouraged the arts, improved the port infrastructure of Naha, and greatly expanded the kingdom’s international trade. He oversaw the building of many monuments, temples, villas, gardens, and bridges, particularly the expansion and beautification of Shuri Castle.


Though none of Sho Shin’s successors was able to achieve the same degree of peace, prosperity, and cultural achievement, the castle remained the seat of the royal court, the administrative and cultural heart of the Ryukyu Islands, and the residence of the royal family until Okinawa became part of Japan in 1879. Following the family’s departure, Shuri Castle was used as a military barracks and a school before becoming a Shinto shrine in 1925.


What Are Gusuku?

Gusuku like Shuri Castle are symbols of the prosperous era of the twelfth to sixteenth centuries, when the Ryukyu Islands progressed from isolated domains to a united kingdom that enjoyed independence and extensive overseas trade. In addition to Shuri Castle, prominent surviving castle ruins in Okinawa include Nakijin Gusuku, Zakimi Gusuku, Katsuren Gusuku, and Nakagusuku, all of which are part of a collective UNESCO World Heritage site. Although Shuri Castle is well documented, only a few historical records of most of the other gusuku have survived, and many questions about their construction and use remain unanswered. What is clear, however, is that gusuku were both defensive and spiritual in nature, with military, residential, and ceremonial facilities. All have walls of limestone, and though little to nothing remains of their original wooden structures, archeological and historical research have given us a good idea of the size and layout of the most important buildings and the lifestyles of their inhabitants.


Both Japanese and Ryukyuan castles are arranged as a sequence of protected enclosures, or wards, with the most secure one at the highest elevation. But Ryukyuan castle walls are usually undulating and organic in form, while Japanese castles are more strictly rectilinear, with sharp corners. Moreover, Ryukyuan castles did not have the large, multistory defensive wooden towers of mainland Japanese castles.


The Castle Structure

Shuri Castle was constructed on a prominent hill that rises about 130 meters above sea level at its highest point. The panoramic view of the surrounding terrain and the presence of freshwater sources made this an excellent site for a castle. The structure initially consisted of one main enclosed ward; a second outer defensive perimeter was added in about the mid-sixteenth century. The organically curved defensive walls are made of closely fitted Ryukyuan limestone about 3 meters thick and from 6 to 15 meters high. The walls of the broad, terraced inner ward sheltered the most important ceremonial, residential, and administrative buildings of the kingdom, including a main hall called the Seiden. These structures were grouped around a series of courtyards aligned along an east-west axis.


At its peak, Shuri Castle had thirteen gates, including four with large stone arches cut into the defensive walls in a distinctively Chinese manner. Others had a Chinese-style roof that covered a notably Japanese design—a wooden gatehouse that spanned a full break in the walls. Gatehouses and the most important buildings were lacquered red. Shuri Castle was notable for a large ceremonial and sacred wooded area called the Kyo no Uchi, which had several stone-walled sites for worship that were considered important to the nation’s welfare. Approximately 10 such sites were located within the castle walls.


A Major Cultural Center

Under the Second Sho Dynasty, the district around Shuri Castle developed into a flourishing, internationally oriented cultural, political, and financial center, as well as a community of cultured government officials and the aristocracy. The area surrounding the castle was skillfully landscaped with prominent water features and bridges. Important temples and other religious sites were built nearby, as were princely palaces and grand aristocratic residences. Important institutions devoted to overseas trade, education, arts and craft production were established close to the castle.


The Kingdom of Ryukyu had close relations with China and Japan, and envoys from those nations made important diplomatic visits to Shuri. This made it a primary center of cultural influences from abroad, and the unique synthesis that evolved is reflected in the design and technical aspects of Shuri Castle. Overall, the ceremonial spaces of the castle were designed to emulate the Forbidden City of Beijing, with elements and motifs borrowed from Chinese palace architecture. Some important buildings were constructed according to Japanese design principles, while other aspects can be traced to Korean precedents. But the imposing fortress walls and functional layout of the castle wards are uniquely Ryukyuan.


A Cycle of Fires and Rebuilding

Shuri Castle was destroyed five times and has been repeatedly reconstructed. It burned down in 1453, 1660, and 1709, and suffered a devastating naval bombardment during the Battle of Okinawa in May 1945. Meticulous restoration of several main buildings, the stone walls and gates was completed in 1992, but a large fire in October 2019 destroyed the Seiden and several other structures. Efforts to reconstruct those buildings are currently underway.


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