審議会等の情報
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河川審議会について
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1.近代治水百年を振り返って
明治以降着実に進められてきた近代の治水事業により、洪水に対する流域の安全性が高まり、それまで氾濫を繰り返していた土地に良好な水田や市街地が急速に広がった。また、戦後相次いだ大災害や急激な都市化が招いた都市水害に対処すべく災害復旧や治水対策等が進められ、同時に急増する水需要を賄うためのダム等による水資源開発が行われた結果、我が国は急速な高度成長が可能となり、今日の経済・社会の基礎が築かれることとなった。
(1)地先防御方式による治水【明治以前】 記録に残されている最も古い我が国の治水事業は、淀川のまんだづつみ茨田堤が築造された3世紀頃までさかのぼるといわれているが、これ以前においても灌漑のための溜池や河川から用水を引く工事や、湿地開発のための排水工事等は行われていた。社会・経済の発展に伴う財政規模の拡大と施工技術の進展により、順次事業の規模が拡大し、新田開発と舟運を目的とした河川改修工事が行われるようになった。この代表的な事例として、江戸時代に行われた利根川の東遷や大和川の付け替えがあげられる。一方、荒廃山地における対応は、一部の地域を除き、森林の伐採規制や山林取り締まり等が主であった。 また、この時代の治水方式は、地先の局所的防災を主体とするものであった。地先の田畑及び集落を水害から守るため、左右岸や上下流で敢えて堤防の高さを変える等、地先の重要度や地形等の自然特性に対応した治水方式がとられていた。氾濫水が集落に流入しないように堤防を川沿いではなく集落の近くに設けていたり、予め洪水を越水させる場所に水防林をつくり、氾濫水の流勢を削ぐ工夫をしていた。水害常襲地帯では、水塚や水屋などを設け、舟を準備しておくなど地域住民自らが洪水への対策を実施していたのである。また、江戸時代の河川工事は幕府の統制下で実施されており、その費用は幕府・藩・村等で負担され、公儀・国役・領主普請、自普請といった工事の規模に応じて分担が定められていた。 (2)河川舟運と低水工事【明治初頭〜明治中期】 明治維新以降、河川工事や河道への土砂流出を防ぐための上流荒廃山地に対する砂防工事が、淀川等の主要河川で着手されたが、財政基盤の脆弱さから十分な対策は困難であった。一方、近代国家の形成を目指した殖産興業政策が展開された。当時の内陸の大量物資輸送の主役は舟運であったため、河川は経済の大動脈としての役割を担っていた。河川整備は国の経済政策そのものであり、明治13年には国による舟運のための低水工事が淀川で実施された。また、当時の工事はオランダから招聘された技術者の指導の下に進められ、淀川をはじめ木曽三川等多くの河川で計画の策定と事業の展開が図られた。一方、洪水防御のための高水工事の実施主体は地方行政庁であり、依然として地先を重視したものであった。
この時期は、我が国が近代国家として法体系を整備している時期でもあり、国家の体制づくりを急いでいた明治政府にとって、法律を整備し、その下で治水事業を進めていくことが強く求められていた。
(1)国主体の治水への取り組み【明治後期〜昭和10年代】 このような中、明治29年には河川法が、翌30年には砂防法、森林法が制定され、近代治水の基礎が形成された。この河川法は昭和39年に改正されるまで我が国の河川管理の基本原則となった。 河川法の制定により、河川を国の営造物とし、管理は国の機関としての地方行政庁が行うこととなった。また、公共の利害に重大な関係があるものに限り、河川、河川敷地及び流水の利用については私権を排除するものとした。同法は、これまでと同様に地方行政庁に河川工事、維持の第一義的な責任を負わせているが、次の場合には国が直接、工事を行うものとした。
同法の制定により、本格的な河川改修を行うことができるようになった。その代表例として、新淀川放水路工事があげられる。 また、砂防法については、砂防指定地を指定し荒廃山地からの流出土砂対策を行い災害を防止することを目的として制定された。 その後、明治43年に全国的な大水害が発生し、勅令を以て内閣に臨時治水調査会が設置され、第一期治水計画の検討が行われ、国の事業として改修を進めるべき河川の選定、施工順位、工期及び工費が審議された。政府はこれを受け、財政的な裏付けをもって治水工事に着手した。
一方、当時の河川の水利用は、萌芽期にあり小規模に展開され始めた水力発電を除けば、灌漑用水に限られていた。このため、河川法での利水に関する規定は簡易であり、流水の占用等利水に関する権限は地方行政庁に委ねられていた。その後、鉄鋼、機械工業等が発展し、とりわけ第一次世界大戦後の経済発展に伴う水力発電が飛躍的に増大した。また、農業については、明治後期に開始された耕地整理事業が大正時代に入って着実な進展をみせ、灌漑排水事業を中心とした土地改良事業の大きな展開をみることとなった。この結果、農業、発電、都市用水等の利水事業者間の水利権を巡る摩擦が深刻化することとなった。 また、水需要の増大に対応するため、治水・利水の目的を併せ持つ総合的事業としてダム・堰による河水統制事業に着手した。この背景には、当時アメリカでニューディール政策の一環としてのT.V.A 事業が進展していたこと、国民の食糧確保のための農業生産の増加、都市への人口集中に伴う水道使用量の増加等水需要の構造が変化したことがあった。この事業は、昭和12年から開始された河水統制調査に基づき、国及び地方行政庁により実施された。しかし、すぐに第二次世界大戦へ突入し、大きな進展をみることはできなかった。
(1)経済発展への基盤整備【昭和20年代〜30年代】 戦時中の治水事業の進展は限られたものであり、昭和20年代から30年代前半にかけて戦後の荒廃した国土にカスリーン台風等の大型台風があいついで来襲し、大きな被害が頻発した。
一方、戦後の国土と経済の復興を目指して、昭和25年には「国土総合開発法」が制定された。国土総合開発の主役は河川総合開発であり、電力需要の増大に対処するため昭和27年には「電源開発促進法」が制定された。また、経済の発展に伴う工業用水や都市用水の飛躍的な需要の増大に対応するために、治水・利水の目的を併せ持つ多目的ダムにより水資源開発が進められ、昭和32年に制定された「特定多目的ダム法」では、建設及び管理が河川管理者に一元化された。さらに、昭和30年代に「工業用水道事業法」、「水道法」、「下水道法」、「水資源開発促進法」が制定され、順次利水に関する法制度が整備されていった。また、ダム等が建設される水源地域の振興対策の必要性が認識され、昭和47年に「水源地域対策特別措置法」が制定された。 昭和30年代以降の経済・社会の発展及び行政制度改正に伴って、河川行政に求められる以下のような要請に応えるために、昭和39年に河川法が全面改正された。
この結果、河川行政には「工事実施基本計画」の策定が義務付けられ、これまでの区間毎の管理から、上流から下流まで水系一貫した河川管理へと大幅な転換をとげることとなった。 (2)急激な都市化の進展に対応した河川整備【昭和40年代以降】 新河川法の制定と前後して、高度経済成長時代を迎えて都市及び産業は急速な発展を遂げた。同時に、河川・湖沼等の水質汚濁、治水対策の立ち遅れによる都市水害の頻発、昭和39年のオリンピック渇水をはじめとする深刻な水不足、土砂災害の急増等、急激な都市化の進展は、河川をめぐるさまざまな問題を引き起こした。
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