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[オープニング]
日本橋川は、40年前に首都高速道路がその上を通るまでは、江戸時代のはじめから360年間、日本橋を中心として江戸・東京の賑わいの中心でした。
かつての江戸城、現在の皇居のお壕と日本橋川に架かる一ツ橋は、100mの近さで接しています。日本橋川は江戸城の生い立ちから、江戸のまち、その後の東京の発展とともに、大きくその姿を変えながら、人々の手によって造りあげられてきました。このため日本橋川は、東京を最も象徴する川であり続けたのです。
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[鎌倉橋〜新常盤橋]
ここは、大手町と内神田を結ぶ鎌倉橋の下流です。この辺りの日本橋川は、上流部の区間と比べると、水面に広がりがあり、空間にゆとりが出てきます。
前方には、JRの橋が見えてきました。かつての鉄道省の紋章が、橋の中央にあるキーストーンに見ることが出来ます。これは鉄道のために架けられたアーチ橋であり、昭和初期の建造物です。
これから下流部には、80年前の関東大震災の復興事業として造られた震災復興橋梁と呼ばれる橋が連続しています。
[新常盤橋]
ここには、新常磐橋が架けられています。10年前までは、ここにコンクリートづくりでありながら、石橋のような印象を与える美しい橋が架けられていました。しかし、新幹線が上野から東京駅へ乗り入れたために、かつての橋は、取り壊されてしまいました。
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[旧常盤橋〜常盤橋〜一石橋]
左側に見えてきたのが、日本銀行です。日銀は、辰野金吾という建築家が今から107年前に設計した建物です。その手前は、旧常磐橋です。現在の佐賀県である肥後の石工を呼び寄せて造ったと言われています。江戸城の常磐御門がこの橋の右側にあったので、この橋の名前がつけられました。明治の東京には、2つのアーチ橋が造られていたのですが、そのうちの1つが今日もこの場所に残っているのです。
振り返って日銀を見ると、建物は水際に映えて見えます。水辺から見られることも意識して、建物が造られたことを伺わせます。近代建築と呼ばれる洋式建築の多くは、日本橋を中心に、明治になって華やかに登場したのでした。まちづくりにおける文明開化は、日本橋川の水際から始まったと言っても過言ではなかったのです。
[一石橋〜西河岸橋]
ここから日本橋川は、左側に向かって大きく蛇行していきます。
江戸時代の日本橋川は、蔵が立ち並ぶ物流の中心でした。しかし、「建築施設」と呼べる建物は、見られませんでした。川縁に、堂々たる建築が造られる明治になって、初めて東京には水辺の都市として魅力が生まれたのでした。
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[西河岸橋〜日本橋]
これが日本橋です。今から92年前、明治44年に妻木頼黄(つまき よりなか)という建築家が設計したルネッサンス様式の石づくりの橋です。御影石を使った石の橋が、東京には現在2つ残されていますが、その2つが日銀前の旧常磐橋とこの日本橋なのです。
日本橋は、江戸の中心であり、日本の中心として東海道をはじめとする五街道の出発点でした。関東大震災後に築地に市場が移転するまでは、この左側には魚河岸がありました。
また、江戸時代には、いわゆる大店(おおだな)が橋の通りの左右に店を並べていました。現在も、橋を左側に進めば、三越デパートがありますが、当時、通りからは富士山が見え、この辺りは駿河町と呼ばれていました。
[日本橋〜江戸橋]
明治になると、この周辺が金融街に変化していきます。日本で最初のビジネス街は、兜町につくられました。日本橋を少し下れば、右側にその姿を見ることが出来ます。
江戸時代には、橋の「たもと」に、江戸橋広小路という火除け地がありました。そのオープンスペースを利用し、いろいろな店や施設が集まり、活気に満ちた空間となっていたのです。関東大震災を経て、昭和通りが造られ、現在の江戸橋に変わっていったのです。
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[江戸橋〜鎧橋]
ここに三菱倉庫があります。
これは昭和初期の三菱倉庫の建物です。ここから見える扉の開口部へ、クレーンを使って、川から荷物を運び入れていたのです。建物全体は、川に向かって顔を向けており、その姿は、ちょうどマストを持つ商船のようでした。日本橋川が大きく蛇行する場所にあるため、そのカーブをデザインに取り入れた斬新な建築となったのです。
ここには、日本の近代経済社会を立ち上げた渋沢栄一の邸宅が、川に向かって建てられていました。渋沢栄一は、明治の東京をイタリアのベニスのような国際商業都市にしようと考えました。渋沢は、この日本橋川を利用してビジネス街を造り、自らの邸宅をベネチア・ゴシックスタイルの建物として、辰野金吾に作らせたのです。
東京証券取引所が見えます。現在、日本橋兜町には多くの証券会社が集中しています。これは渋沢栄一が作った明治のビジネス街の名残です。東京証券取引所は、昭和の初期に作られ、日本橋川を意識した美しいデザインを誇ってきましたが、現在は新しい建物に建て変えられました。この方向には、川と橋、それに建物が作り上げる見事な景観があったのです。
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[茅場橋〜湊橋〜豊海橋]
この付近から日本橋にかけては、江戸の流通の中心地でした。
現在も、このあたりには、醸造業の会社が見られます。銚子や野田などから醤油を運び、川に面した河岸に荷揚げをしていました。その名残りが、現在も「まちの記憶」として日本橋川の周りには、受け継がれているのです。
川の上を覆っていた高速道路は、この辺りからなくなります。吹き抜けた空の下にある日本橋川には、400年の水辺の風が、今も薫るのです。
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