タイトル 春日集落案内所かたりな (平戸とキリスト教)

  • 長崎県
ジャンル:
集落・街 神社・寺院・教会
媒体利用区分:
その他(音声ガイド等)
ワード数:
501-750
作成年度:
2019年
地域協議会名:
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」保存活用実行委員会
位置情報:
長崎県平戸市春日町

The Communities and Sacred Places of Hirado

Christianity in Hirado


The first Portuguese ship to reach Japan docked at Hirado,

Nagasaki Prefecture, in the year 1550.


The Portuguese brought Western culture with them.


Buildings like Hirado’s Dutch Trading Post

evoke the romance of overseas trade.


Trade with the West flourished.

It was not only goods that came to Hirado.


Christianity came, too.


The missionary Francis Xavier came to Hirado to preach.


Thinking it would help win trade, Matsura Takanobu,

the 25th lord of Hirado, let the Jesuits preach.


He also allowed his retainer Koteda Yasutsune and

his brother Ichibu Kageyu to convert to Christianity.


As ardent Christians, the two men persuaded

ordinary people in the Hirado domain to convert.


Hirado became the first place in Japan

where Christianity flourished.


It did not flourish for long.


In 1587, Toyotomi Hideyoshi, the great unifier of Japan,

published an edict expelling the Catholic fathers.


Matsura Takanobu, the lord of Hirado,

had been tolerant of Christianity.


But after his death in 1599, the repression of

Christianity in Hirado gradually intensified.


Believers were executed not just in Hirado,

but in Nagasaki, and throughout Japan.


People known as Hidden Christians secretly kept their faith,

while outwardly accepting Buddhism and Shinto.


This recreates how the Hidden Christians practiced their faith.

They had a Shinto altar in the tatami room

and a Buddhist altar in the tea room . . .


. . . but they kept Christian objects of devotion in a closet

where no one would see them.


These are hanging scrolls based on Christian pictures,

and a purification tool derived from the scourge.


These water bottles are filled with holy water.


The Hidden Christians worshipped these objects while

chanting the Christian prayers they called oratio.


For 250 years, the faith was transmitted from generation to

generation, secretly and unbroken, with no missionary contact.


When Japan opened its borders at the end of the

Tokugawa shogunate, foreign priests resumed their preaching.


The ban on Christianity was finally lifted in 1873.


Many Hidden Christians rejoined the Catholic Church.

Religious activity resumed, and churches were built.


Some of Japan’s Christians did not return to the Catholic Church.

They persisted with the old forms of faith.


They and their faith are known as “Kakure Kirishitan.”

They have no churches, and believe in Buddhism and Shinto too.


It is important to tell people about Hirado’s history

of Christianity and the Kakure Kirishitan.


They safeguarded and transmitted the faith for 250 years

with no missionaries there to help them.


It is an extraordinary story,

as rare as it is precious.


Because of the low birthrate and social changes,

the number of Kakure Kirishitan is now shrinking.


We can learn from the dramatic history of Christianity in Hirado.


The culture of the Kakure Kirishitan, which retains the old forms of faith,

and the churches built by the Catholics after the revival . . .


. . . all point to the importance of faith and religion.


We, too, must pass on the history and faith

of our ancestors to the next generation.


平戶的聖地與聚落


平戶的基督教


1550年,長崎縣平戶市平戶港,

迎接了首艘來日的葡萄牙船。


西洋文化,就此隨葡萄牙人傳入日本。


建有荷蘭商館的街道上,

尚有一絲當時的貿易情懷。


彼時的日本與西方往來頻繁,貿易興盛。

然而進入平戶的卻不僅僅是商品。


基督教也隨之傳入。


傳教士聖方濟各·沙勿略,為傳教而造訪平戶。


第25代平戶藩主松浦隆信,認為傳教有助於貿易,

於是應允耶穌會傳教士進行相關活動。


此外,松浦隆信還准許家臣籠手田安經,

以及其弟——一部勘解由改信基督教。


二人皆是虔誠的基督徒,

曾勸說領地內的居民一同改信基督教。


平戶,就此成為

日本第一片基督教蓬勃發展的土地。


然而,這段繁榮並未持續太久。


1587年,一統天下的豐臣秀吉,

發布《伴天連追放令》,將基督教神父驅逐出境。


平戶藩主松浦隆信,

卻對基督教採取相當寬容的態度。


然而,1599年松浦隆信過世後,

打壓平戶基督教的行為日趨嚴重。


不止平戶,整個長崎,乃至全日本的吉利支丹

接二連三遭到處死。


名為「潛伏吉利支丹」的群體,表面上信奉佛教及神道教,

暗中卻堅守著基督教信仰。


這裡再現了潛伏吉利支丹實踐信仰時的場景。

房間裡擺放著神龕,起居室裡放著佛壇……


……不過,在不起眼的儲藏室中,

卻裝飾著吉利支丹的信仰聖器。


這些是關於基督教聖畫的掛軸,

以及一種起源於鞭子的驅邪淨化之工具。


這些瓶中裝的是聖水。


潛伏吉利支丹不但供奉這些物品,

也會詠唱名為「Oratio」的吉利支丹祈禱文。


約250年來,在沒有傳教士的情形下,

信仰被秘密地代代相傳。


幕府末期,日本開放國度,

外國神父得以重啟天主教的傳教活動。


1873年,基督教終於解禁。


許多潛伏吉利支丹重返天主教的懷抱,

重新開始宗教活動,興建教堂。


不過,也有吉利支丹選擇不回歸天主教,

繼續維持禁教時期的古老信仰方式。


這些人保有著特殊的信仰,被稱為「隱匿吉利支丹」。

他們沒有屬於自己的教會,也同時信仰佛教和神道教。


平戶的基督教與隱匿吉利支丹,

是值得全世界了解的重要歷史。


吉利支丹在失去傳教士的250年裡,

未曾放棄信仰,而是一同堅守並傳承。


吉利支丹的歷史彌足珍貴,

是無與倫比的一段故事。


由於出生率的降低、社会結構的變化,

隱匿吉利支丹的人口正急遽減少。


平戶的基督教歷史充滿動盪,卻蘊含了許多意義。


堅守禁教時期古老的信仰形式,

以及基督教復興後,天主教信徒興建的教會等


恰恰表明了信仰與宗教的重要性。


先人相傳至今的歷史與文化,

接下來應由我們繼續承襲與發揚。

平户的圣地与村落


平户的基督教


1550年,长崎县平户市平户港,

迎来了首艘来日的葡萄牙船。


西洋文化,就此随葡萄牙人传入日本。


建有荷兰商馆的街道上,

尚有一丝当时的贸易情怀。


彼时的日本与西方往来频繁,贸易兴盛。

然而进入平户的却不仅仅是商品。


基督教也随之传入。


传教士圣方济各•沙勿略,为传教而造访平户。


第25代平户藩主松浦隆信,认为传教有助于贸易,

因此应允耶稣会传教士进行相关活动。


此外,松浦隆信还准许家臣笼手田安经,

以及其弟——一部勘解由改信基督教。


二人皆是虔诚的基督徒,

曾劝说领地内的居民一同改信基督教。


平户,就此成为

日本第一片基督教蓬勃发展之地。


然而,这段繁荣并未持续太久。


1587年,一统天下的丰臣秀吉,

颁布《伴天连追放令》,将基督教神父驱逐出境。


平户藩主松浦隆信,

却仍对基督教采取相当宽容的态度。


然而,1599年松浦隆信逝世后,

打压平户基督教的行为日趋严重。


不止平户,整个长崎,乃至全日本的吉利支丹

接二连三遭到处决。


名为“潜伏吉利支丹”的群体,表面上信奉佛教及神道教,

暗中却坚守着基督教信仰。


这里再现了潜伏吉利支丹实践信仰时的场景。

房间里摆着神龛,起居室里放着佛坛……


……不过,在不起眼的储藏室中,

却装饰着吉利支丹的信仰圣器。


这些是关于基督教圣画的挂轴,

以及一种起源于鞭子的驱邪净化之工具。


这些瓶中盛放的是圣水。


潜伏吉利支丹不仅供奉这些物品,

还会咏唱名为“Oratio”的吉利支丹祈祷文。


在没有传教士的约250年间,

信仰被秘密地代代相传。


幕府末期,日本开放国度,

外国神父得以重启天主教的传教活动。


1873年,基督教终于解禁。


许多潜伏吉利支丹重返天主教的怀抱,

重新开始宗教活动,兴建教堂。


不过,也有吉利支丹选择不回归天主教,

继续维持禁教时期的古老信仰方式。


这些人被称为“隐匿吉利支丹”,保有着特殊的信仰。

他们没有属于自己的教会,也同时信仰佛教和神道教。


平户的基督教与隐匿吉利支丹,

是值得全世界了解的重要历史。


吉利支丹在失去传教士的250年里,

未曾放弃信仰,而是一同坚守并加以传承。


吉利支丹的历史弥足珍贵,

是无可比拟的一段传奇。


随着出生率的降低、社会结构的变化,

隐匿吉利支丹的人口正急遽减少。


平户的基督教历史充满坎坷,却蕴含深意。


坚守禁教时期古老的信仰形式,

以及基督教复兴后,天主教信徒兴建的教会等


恰恰印证了信仰与宗教的重要性。


先人相传至今的历史与文化,

从今以后,理应由我们继续承袭与发扬。

平戸の聖地と集落

平戸のキリスト教


1550年 、長崎県平戸市平戸港に、

日本で最初のポルトガル船が入港しました。


ポルトガル人たちは、西洋の文化をもたらしました。


オランダ商館が建つ町並みは

交易のロマンを感じさせます。


西洋との交易が盛んに行われました。

平戸にもたらされたものは品物だけではありませんでした。


キリスト教も伝来したのです。


宣教師フランシスコ・ザビエルは、布教活動を行うため平戸を訪れました。


これが貿易の助けになると考えた25代平戸藩主松浦隆信は、

イエズス会宣教師の布教活動を認めました。


また、松浦隆信は家臣の籠手田安経と

その弟一部勘解由がキリスト教に改宗することを認めました。


敬虔なキリシタンとして、二人は領地に住む人々に対して

キリスト教に改宗するよう説得しました。


平戸は日本における最初に

キリスト教が繁栄した場所になりました。


しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。


1587年、天下統一を果たした豊臣秀吉は、

キリスト教の神父を国外に追放する法令を出しました。


平戸藩主松浦隆信は

キリスト教に寛容でした。


しかし、1599年の松浦隆信の死後、

次第に平戸のキリスト教弾圧が本格化しました。


平戸のみならず、長崎全域、さらに日本中で

キリシタンが次々と処刑されていきました。


潜伏キリシタンと呼ばれる人々は、表面上は仏教や神道を受け入れつつ、

密かにキリスト教の信仰を守り続けました。


こちらは潜伏キリシタン信仰の様子を再現したものです。

座敷に神棚、茶の間に仏壇を置いていましたが...


...納戸には人目につかないよう

キリシタンの信仰具を飾りました。


これらは、キリスト教の聖画をもとに描かれた掛け軸と

鞭を起源とする祓い清めるための道具です


これらの瓶には聖水が入っています。


潜伏キリシタンは、このような品々を信仰の対象として祀り、

「オラショ」というキリシタンの祈りの言葉を唱えました。


約250年にわたって、宣教師不在の中、

信仰は親から子ヘと脈々と密やかに継承されました。


幕末に日本が開国すると、

外国人神父がカトリックの布教を再開しました。


1873年、キリシタン禁制の高札はついに撤廃されました。


多くの潜伏キリシタンがカトリックに合流しました。

宗教活動は再開され、教会堂が建てられました。


キリシタンのなかにはカトリックに復帰しなかった人々もいました。

彼らは禁教当時の信仰形態を継続していきました。


このような人々とその信仰は「かくれキリシタン」と呼ばれます。

かくれキリシタンは教会をもたず、仏教・神道も信仰します。


平戸のキリスト教とかくれキリシタンの歴史について

世の中の人々に知ってもらうのは重要です。


キリシタンは宣教師が不在の250年間、

信仰を絶やさず、守り、継承してきました。


キリシタンの歴史は、

大変貴重かつ稀な比類なき物語です。


後継者不足や社会構造の変化などにより

「かくれキリシタン」の伝統は縮小しています。


私たちには平戸のキリシタンの劇的な歴史から学べることがあります。


禁教当時の信仰形態を残すかくれキリシタンの文化と

キリスト教復興後のカトリック信者が建てた教会


これらは全て、信仰と宗教の重要性を指し示しています。


こうした先祖が守り伝えてきた歴史や文化を、

今度は私たちが次世代へ伝承していく必要があります。


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