阿波連ビーチと鰹漁
渡嘉敷村の鰹漁は明治36年から始まり、阿波連集落においても盛んに行われていました。このレンガ構造物は、鰹節製造工場の煙突の一部が残されたものです。鰹が水揚げされ、加工された後に、煮たり、蒸気を当てて水分をとったり、薪の煙で乾燥させたりする製造過程に火力が必要で、煙突が設置されました。獲れたカツオは砂浜に直接投げて、浜で待っている人が拾い上げては、工場に運んだそうです。
戦後の阿波連集落では1日に2~3回、漁に出ていた時期もあり、さらに鰹節製造工場も2箇所ありました。鰹漁が盛んになり大型船で操業するようになると、村民の生活もしだいに豊かになっていきました。明治の中頃までは、茅葺きの家が多かったそうですが、鰹漁による収益が増えるにつれて瓦葺きの家が多くなり、鰹漁とともに豊かになっていった歴史があります。
The catch was dumped directly onto the beach for waiting workers to pick up and carry to the factory. (獲れたカツオは砂浜に直接投げて、浜で待っている人が拾い上げては、工場に運んだそうです。)
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