タイトル 顕證像

  • 京都府
ジャンル:
神社・寺院・教会
媒体利用区分:
アプリ・QRコード等
ワード数:
250以下
作成年度:
2019年
地域協議会名:
仁和寺

Portrait of Kensho

This statue serves as both a memorial and a posthumous portrait of the seventeenth-century monk Kensho (1597–1678), one of the most important figures in Ninnaji’s premodern history. The temple was mostly burned down during the Onin War (1467–1477) and remained in a dilapidated state for many years thereafter. Finally, in 1634, during a visit to Kyoto by Shogun Tokugawa Iemitsu, another monk, Kakushin Nyudo, successfully petitioned for the funding and permission to reconstruct the temple. Yet it was Kensho who oversaw the design and building of the new temple facilities. His diary, which survives, includes details of his supervision of the design and other decision-making processes. He also recounts his concerns that the project would be delayed to the point that it might never even occur at all. And it did take a long time for the reconstruction to come to fruition. Though Nyudo secured the necessary funding in 1634, construction itself did not begin until 1640, and was only completed in 1646. The layout of the temple as it exists today has not changed much since.


顯證坐像


此雕像刻畫的是仁和寺近世歷史中最重要的人物之一——17世紀的僧侶顯證(1597-1678),雕像於其圓寂後落成,亦是一座紀念碑。應仁之亂(1467-1477)期間,仁和寺大半被焚毀,其後長年荒廢。1634年,德川家光(1604-1651)造訪京都,當時他應允了覺深入道(1588-1648)申請重建寺院的請求並給予資金援助。不過新建築的設計與重建的原動力實則來自顯證。他的日記保存至今,其中詳細記載了建築設計以及他指揮重建過程中的獨特決策。由於重建計劃大幅推遲,他甚至在日記中記述了對無法完成重建的擔憂。不過他的擔憂不無道理,覺深入道於1634年便已成功募得所需資金,卻直至1640年才開工,最終於1646年方才完工。此時新建的寺院佈局,與當今並無甚大差別。

显证坐像


此雕像刻画的是仁和寺近代历史中最重要的人物之一——17世纪的僧侣显证(1597-1678),雕像于其圆寂后落成,也是一座纪念碑。应仁之乱(1467-1477)期间,仁和寺大半被焚毁,之后长年荒废。1634年,德川家光(1604-1651)造访京都,当时他应允了觉深入道(1588-1648)申请重建的请求并给予资金援助。不过新建筑的设计与重建的原动力实则来自显证。他的日记保存至今,其中详细记载了建筑设计以及他指挥重建过程中的独特决策。由于重建计划大幅延迟,他甚至在日记中对无法完成重建表示了担忧。不过他的担忧不无道理,觉深入道于1634年便已成功募得所需资金,却直至1640年才开工,最终于1646年方才完工。此时新建的寺院布局,与当今并无多大差异。

顕證像

この像は、近世における仁和寺の歴史における最重要人物の一人である17世紀の僧、顕證の死後につくられた肖像彫刻で、顕證の記念碑としての機能も果たしている。応仁の乱(1467~1477年)の際に仁和寺はその大部分が焼かれ、その後も長年にわたって荒廃した状態のままだった。1634年に徳川家光が京都を訪れた際、覚信入道が資金の提供と再建の許可を求め、これが受け入れられた。しかし、新たな建物の設計と建築の原動力となったのは顕證(1597~1678年)であった。彼の日記は今日まで残されており、そこには設計やその他の意思決定における彼の監督ぶりの詳細が書き記されている。この日記には、計画があまりにも遅れてしまっているために、再建が不可能に終わってしまうのではないかという懸念までが記されている。彼の懸念にはもっともな部分もあった。1634年に(覚信)入道が必要な資金は確保していたものの、建物の建設は1640年になるまで開始されず、ようやく完成したのは1646年になってからだったからである。このときにつくられた伽藍配置は、現在にいたるまでおおむね変わっていない。


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