水管理・国土保全

  

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那賀川の歴史

那賀川(阿波の八郎)の由来

那賀川は昔、「長(なが)の国」の「長川(ながかわ)」と呼ばれていました。長の国の名称は、日本書紀に奈我、長などと書かれています。奈良時代に阿波(あわ)国那賀(なか)郡と改名されましたが、この名が定着したのは平安時代頃と言われています。長川の名称は、江戸時代までは長川、長河などとも書かれていました。

那賀川の愛称「阿波の八郎」の由来は、流域住民からの愛称募集の結果、当時の流域市町村の数(8)を主体に、吉野川の四国三郎に対峙して、八の字の縁起により、八郎の名前が昭和62年に誕生しました。


那賀川の旧河道
出典:小川豊「那賀川の旧河道」




那賀川水上交通(筏流し、高瀬舟)

那賀川流域は日本有数の多雨地帯であり、また、山地が流域の約9割を占めることもあり、古くから林業が盛んです。上流域の木材資源の運搬は筏流しによって行われ、隆盛期には年間4,000杯もの筏が、上那賀(かみなか)町谷口土場より約70km下流の古庄(ふるしょう)、中島(なかしま)の集積場まで運搬されていました。また、明治末期より昭和中期までの間、同区間においては高瀬舟が那賀川水流交通を担っていました。このように、那賀川は水上輸送の動脈としての役割を担っていましたが、昭和に入ってから、道路の整備とともに、昭和20年代から30年代にかけての長安口(ながやすぐち)ダムの建設により、水上輸送から陸上輸送にかわっています。




那賀川の水の利用(大井手用水堰等)

那賀川は、那賀平野の穀倉地帯を潤す水源としても大きな役割を担ってきました。那賀川におけるかんがい事業で最も古いものとしては、大井手(おおいで)用水堰(1674年)があげられます。当時の堰は木杭に石を詰めた簡単なものであったため、洪水のたびに決壊、流失を繰り返していました。大井手用水堰の修築も難工事を極め、藩命を受けた佐藤良左衛門(2代目)はその娘を人柱に立てようとしましたが、藩公からの使者がこれを止め、代わりに観世音を埋めたと伝えられています。現在は、上広瀬堰、下広瀬堰とともに統合され、北岸(ほくがん)堰となっています。

その他の水の利用としては、製紙産業を主体とした工業用水と発電用水があります。水力発電は、昭和29年に建設された坂州発電所を初めとして、現在5ヶ所の発電所により徳島県の年間電力使用量の約1割をまかなっています。


大井手堰跡の碑


佐藤良左衛門翁の碑



那賀川の治水
暴れ竜那賀川
豊かな恵みの一方、いったん豪雨があると那賀川は氾濫し、過去、幾度となく流域の人々を苦しめてきました。このことは、「黒滝寺(くろたきじ)と大竜」の伝説として語り継がれています。その伝説とは、昔、那賀川の上流にある竜王山という山に、大きな「暴れ竜」(大竜)が住んでいて、麓の村人たちを苦しめていました。それを聞きつけて弘法大師が駆けつけ、悪魔退散の祈願をし、暴れ竜を竜王山から1,200m下の竜王渕に封じこめました。そこで、今後の村の平和を願って黒滝寺という寺が建てられたということです。この話の「暴れ竜」とは、いうまでもなく那賀川の氾濫、洪水を象徴するものと考えられます。




那賀川の治水
江戸時代の治水事業(霞堤、万代堤、水はね岩)
那賀川における治水事業は、江戸時代に、下流に開ける平野部を洪水から守るために随所に築かれた霞堤(かすみてい)(不連続の堤防)に始まるといわれており、代表的なものとしては、万代堤(ばんだいつつみ)があげられます。万代堤は吉田宅兵衛が私財を投じ、三代にわたって取り組み、当時としては本格的な堤防でした。また、宅兵衛は台風時の荒れ狂う水の勢いから堤防を守るために、牛枠(うしわく)、水刎(みずはね)岩(現在の水制)などの水防方法を考案しており、覗石山(のぞきいしやま)から落とし入れた巨石は、「古毛(こもう)の水刎岩」として、今も残っています。


万代堤の碑


古毛の水刎岩



那賀川の治水
明治以降の治水事業(ガマン堰)
明治時代には、那賀川の洪水から羽ノ浦(はのうら)町の商工業地域及び農地を守るために、小洪水は断ち大洪水の一部を派川岡川に越流させて、本川の洪水流量を低減させる堰と堤防を兼ねた「ガマン堰」が築かれました。洪水の度に「我慢せい」と慰め合い、補修工事では重労働を「ガマン」したことから、この名がついたと言われています。


ガマン堰平面図(大正12年頃)





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