都市の記憶とAIによる最適化の狭間で。SF作家・冲方丁がまなざす未来【前編】
SF小説をはじめ、歴史小説、ファンタジー小説、ホラー小説、そして映画の脚本と、幅広いジャンルで執筆活動を展開する作家・冲方丁。歴史や都市、テクノロジーに関する深い知識に裏打ちされた精緻な世界は、多くのファンを魅了してきた。冲方丁がみるPLATEAUの可能性と、都市の未来とは。前編・中編・後編の計三本でお届けするロングインタビュー。
- 写真:
- 森 祐一朗
- 文・編集:
- 岡田 麻沙
- 冲方 丁
- 作家
- 内山 裕弥
- 国土交通省 総合政策局/都市局IT戦略企画調整官
- 齋藤 精一
- 株式会社アブストラクトエンジン代表取締役 パノラマティクス主宰
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日本に根付く測量文化が生きている
ーーPLATEAUを実際にご覧になって、いかがですか?
冲方 さまざまなデータを集約させるというのはデジタル技術の意義のひとつですよね。素晴らしいと思います。
たとえば、自動運転のなにが面倒くさいかといえば「車に環境を理解させる」ことで、いまはそこを無理やりにやっている。でも、ここにあるPLATEAUのデータを車にインプットするだけで動けるようになります。車だけではなく、電車も船もドローンも、いま問題になっているトラックのドライバー不足も、これがあれば10年くらいで解決してしまうのではないか。地上を走っている電車などは、すごい勢いで無人化できるでしょうね。そのあとで「地下」という課題が待っているでしょうけれど。
さらに、無料の背景という存在は、ありとあらゆるコンテンツをつくる人々にとってはものすごく嬉しいことです。そこに予算を割かなくていいというだけで、まったく世界が変わりますから。日照の様子をシミュレーションできて、ここまで正確に影が出せるデータは初めてみました。しかもこうした取り組みを、国がやっている。ぜひ途中でやめないでほしいです。
内山 PLATEAUは国交省が2020年に開始したプロジェクトなのですが、当初から齋藤さんにアートディレクションに入ってもらって、ずっと一緒にやってきたんですよね。
齋藤 僕が参加した理由は、「このままだと地図は日本のものじゃなくなるかもしれない」という危機感があったからです。地図のようなインフラの整備は、一企業が推進するのはなかなか難しく、やはり国が推進していく事業だと思うんです。そうしたときに、その地図がどれだけ使いやすいものであるか、は大事なポイントで、そこはお手伝いできると思いました。
日本は、1995年の阪神・淡路大震災の後から地図や土地データについて試行錯誤を続けてきました。30年弱が経過して、いまようやくこの形になりました。CPUやマシンスペック、インターネットの通信速度など、多くの問題がクリアされたことで、多くの人たちに使ってもらえる状態になったんです。エンターテインメントのコンテンツにも防災にもエネルギー問題にも、幅広い用途で活用でき、全体を次のレベルまで引き上げていける。
地図という領域のデジタルトランスフォーメーションに関して、日本はずっと世界に対して後れをとっている状況だったのですが、フォーマットが揃ったことで、一気にトップに躍り出ようとしています。
冲方 日本にはもともと測量文化があるんですよね。田んぼの大きさを調べさせるという習慣が日本全国に根付いている。そうした強みが出るプロジェクトだと思っています。日本の文化ならではの精密な地図づくりが生きている。歴史的にも素晴らしい到達点だと感じます。
人間の欲望をつくりだすのは環境
ーー日本SF大賞受賞作である『マルドゥック・スクランブル』は、2004年のセンス・オブ・ジェンダー賞候補にもなりました。シリーズの舞台となるマルドゥック市のマチズモは、都市を象徴する螺旋階段と呼応して人々の欲望や暴力性を形成します。こうした、統治のシステムと都市の形態が絡み合いながら人間の欲望を掻き立てていく構造は非常に示唆的です。PLATEAUのようなメタバースでは、人々はどんな欲望を抱くと思いますか?
冲方 人間の欲望をつくりだすものって環境なんですよね。環境が人間の欲望をつくりだし、人間の欲望がまた環境をつくる、この繰り返しなわけですが、まず「メタバースで人間はどんな欲望を抱くのか」については、まだわからない。人間はメタバースをまだ環境として認識していないので。テーマパークや公園、あるいは仲間同士でわちゃわちゃできる空間として認識しているけれども、自分たちの生活を左右する環境とはまだみていないんですよ。将来的にメタバースが生活を左右するような「環境」になった場合、企業が必ずするであろうことは、課金しないと入れない空間をつくることでしょうね。そこで格差が生まれる。
都市というのは常に、経済格差によって入れる場所と入れない場所を区別していくものです。ヨーロッパの都市構造なんてまさにそうですし、日本も、そうではないふりをしてきたけれど、結局、超高層タワーのようなものが建つとあっという間に「ここから上に行ける人/行けない人」に分断されるわけです。これまでの日本の都市づくりでは、貧富の差があまり目立たないようにする工夫がなされてきたはずですが、いまやそれが瓦解して、格差が目に見えるようになった。こうした状況が常識になると、アプリゲームなんかでも「課金勢には決して勝てない」ということがおきてくる。
メタバースにおいては、格差がより露骨になるのではないかと思います。たとえば同じ空間にいるのに課金している人にしか音が聞こえないとか、目の前にいるアイドルが見えないとか。
その一方で、フリーのサービスがどんなふうに生まれてくるのか、人間の新しいニーズが生まれるのか、という視点もあります。たとえば一人暮らしをしている老人がコミュニケーションをとれるツールになる場合、ただコミュニケーションをとるだけではないはずです。ここにAIも入ってくるので。
その人がなにを望むのかは、実はその人自身もよくわからないんです。その環境に触れてみないと、わからない。レジャーに行くと、レジャー施設にすでに用意されてあるものが「自分のしたいこと」であるかのように心が誘導されていきます。なにもない状態で「はい、好きにしてください」と言われると、なにをしていいかわからなくなる。だから、これからニーズをどう開発するのか、どんな欲望を刺激するのかによって、まったく違う意味合いの空間になるでしょう。非常に危険なのは、カルトなどの独裁的な政治思想の持ち主が、他者からまったく見えない完全な密室で勢力を築く可能性です。これには注意しなければいけません。
ひるがえって、福祉的な観点から考えれば、物理的・時間的な事情を抱えている人々にとってはきっと非常に助かるものになると思います。育児や介護に関する問題も「現在地がわかる」ということを活用すれば解決できることがたくさんあるでしょう。福祉面での活用を進めることで、メタバースの存在意義が社会的に形成されていくのではないかと思います。そこで初めて、人々が「税金を払ってもいいからつくってほしい」と感じると思うんです。
ただ、その前に格差がバンバンつくられていったり、閉じた空間の中で危険なものがたくさん生まれたりすると、なかなか前に進まなくなると思います。だから、そうしたものをあらかじめスワイプしておく必要がある。
内山 欧米ではメガプラットフォーマーの寡占を規制する取組が進んでいます。日本でもいわゆる「デジタルプラットフォーマー規制法というものがあり、これは寡占・独占を防止する趣旨のものです。
PLATEAUはサービスそのものではなくデータをオープンにする政策です。その問題意識としては、メガプラットフォーマーによる地図データの独占に向き合う、ということがありました。一企業に都市のデータが依存していけばさまざまな弊害が生じるおそれがある。そこで、サービス層を支える基盤となるデータ層をオープンにすることで、誰でもサービスを自分でつくれるようにしていこうと考えました。ですからPLATEAUの目指すものは、先ほど冲方さんが話された公共性をひらく、という考え方と非常に親和性が高いと思います。
公共性を維持しようとする日本人の姿勢
齋藤 建築の視点から考えると、都市の形が欲望の形をしている時代というのは比較的最近のことだと思います。それ以前は、戦争で都市を失ったあとで再生していくプロセスでした。東京の都市開発というのは、行政の主導で「ここにはこれをつくりなさい」「こっちにはこれを」という感じで進んでいたのですが、2003年から「もうみんな自由競争です」となったんです。そうなると、みんなどんどん新しいルールをつくり、箱庭的に開発をしていくわけです。敷地内だけ違う重力が働いているような、そこだけ違う経済圏があるような施設がつくられていった。
でも僕は、生活をして、水たまりがあって、風景があって、悲しみも楽しみもあるようなところが都市のリアルだと思うんです。災害やジェントリフィケーションといった問題を踏まえて、リアルと対峙しなきゃいけない時代がきたと思っています。最近の気候変動にしても、もうSFの話ではなくそれが起きている。リアルで起きている問題を俯瞰して見ることのできるプラットフォームが必要で、そのための情報格差はできるだけ除去していかなければいけない。先ほどの福祉の視点もそうですが、地図ってすべてのベースになることだと思うので、その地図をオープンな形で整備するのは、非常に重要だと思っています。
日本はコモンズみたいなことも言われてきましたが、都市環境全体でみるとすごく不均等だから、これから直していかなければいけない。ニューヨークはいま大変なことになっていますね。僕はニューヨークにいた頃、ハイラインの基本調査をしていたのですが、格差が広がりすぎて従来の住民がほぼキックアウトされていました。市を相手取った訴訟がめちゃくちゃ起きている状況です。こうした事例をみても、人の欲望はもちろん、成長政略や経済の状況なんかも含めて、俯瞰でみる、ということが必要だと思います。
冲方 なるほど。とはいえ、日本の昔ながらの強みとしては、公共性をすごく大切にしてきた歴史があります。たとえば日本は表向きではありますが、一応「教育を受けてはいけない人間」というのを規定したことはないんですよ。女性差別などは確かに今でもありますが、明白に女性が教育を受けることを禁止してはいません。海外だと表立ってあるんです。意図的に教育を受けさせないことで下層民をつくりだし、支配者層の安泰を狙う、ということをしていた。日本は教育、医療、水道などインフラの公共性が非常に高いんですよね。アメリカはいまそこが壊れ始めていますし、ヨーロッパも、お金がなくて壊れ始めています。アイルランドやイギリス、ロンドンなどもそうですけれども。
世界でどこに住みたいか、といえば僕は絶対に日本ですね。この公共性を維持しようとする姿勢は誰からも教えられていないけれども、我々は連綿とそうしてきた。その強靱さは疑いようがないという強みがあると思います。それ以前にもう一度考え直さなければならない国はたくさんあるじゃないですか。アメリカはいま地下鉄がひどい状態で、「アメリカに行っても地下鉄には乗るな」と言われている。治安が悪すぎて路上生活者で溢れているし、警察署の予算が下げられて警察官を雇えないような状況になっている。各国がこれほどひどい状況に陥っているのを横目に、日本はデフレの問題がありつつも、公共性を維持しているわけです。
公共性を捨ててでも利益を追求していったところは、ロサンゼルスなんかもそうですけれども、むちゃくちゃな開発をしてしまったせいで、都市として麻痺してしまっている。そもそも都市ってなんのためにあるのか、を考えなければならないと思います。
「子供を育てる」という発想がなかった都市
冲方 先ほど齋藤さんが「都市が欲望を基準にした構造になりつつある」とおっしゃっていましたが、それぞれの時代によって都市の目的が違ったんですよね。それから、地域の役割によっても。
江戸の場合、つくろうとは思っていなかったけれども、つくらなければならなくなったんです。徳川家がポンと飛ばされて、じゃあここを日本一の天下の大都市にしよう、ということで設計が始まるわけです。特徴的だったのは参勤交代です。全国各地から定期的に人が集まってくることで、結果的に当時の日本列島における国際都市が誕生しました。東北の藩や南西の藩など、本来顔を合わせる機会なんてないような人々が交流し始めた。
「初手から異国文化が日常的に近くにある」というのは、京都・大阪にはない特徴です。京都は王様を祀るためのまちなので、神社仏閣がとにかくメインというか。まち全体がなにかの祈りの場みたいな設計になっています。大阪は商業のために開発されてきたので、各都市が点と線でしか結ばれないんです。東京の場合、紆余曲折があった。天皇が来ちゃうし、首都になるし、爆撃を受けたり、大震災があったり、更地になったり。そのおかげで防衛機構も発達しましたし、アメリカと同盟国になったので貿易も生まれました。
それから、これは日本や欧米など、このタイプの都市の課題なのですが、労働者を消費する場所になっているんです。江戸は元々、大工さんをたくさん集めないと建設できなかったので、男女比もめちゃくちゃだったのですが、その名残がまだあります。地方から来る労働者をどんどん消費して、その労働者はそこに住まわせない、ということが起きている。周辺の労働者を消費していくから、そこで子孫が生まれる必要がなかった。都市計画のなかに「子供を育てる」っていう発想が実はなかったんですね。
齋藤 ああ……確かに!
冲方 その課題をいまだに引きずっているんです。歴史的に、土地設計の際にそれをしてこなかったから、どこにどうつくるのか決まっていない。
イスラエルや中東の都市をみると、ちゃんと子供を産み育てる環境があるんですよ。だからもう人口が減らないんです。東京の弱点としては、ほかの地域の人口が減っていくと東京に来なくなるので、代替労働者がどんどん少なくなっていくんです。
欲望の形として利益を追求する代わりに公共性を失ってきた。実はその典型が、東京においては子育ての場なんです。何百年も続いてしまっている。かつての江戸では屋敷の中でも適当に子供を育てたりしていました。長屋のすみっこの方で無理やり育てるような状態だったので、乳幼児の死亡率もすごく高かった。七五三というのは、3歳まで、5歳まで、7歳まで、生きてくれてありがとう、ということなんですよね。子供用の病院もないし、長屋の布団の上で産ませるような劣悪な環境だった。そういった我々の歴史や記憶があって、いまの「託児所が少ない問題」なんかがある。
これからの大都市の課題としては、いかにして人間を産む都市をつくるか、ということです。いろいろな商品やアイデアが都市から生まれて発信されているけれども、人間が生まれないんですよ。
冲方 その都市に来て、みんなが刺激を受けて旅立っていくということはあるんですが、ここ東京で人間を生産するという発想があまりなくて。本来なら、一千万人もいる都市からはどんどん子供が生まれて各地に行くという逆の人流が生まれなきゃいけないのに。人々が東京に来て、各地からは人が減っていっているんですよ。
齋藤 東京以外の自治体さんの中期計画の中には、いの一番で教育が入っているんですよね。
内山 住宅政策の子育て支援や、まちづくりにおける子育て環境の整備といった視点はあるんですけれど。都市の構造として子育てを前提にする、という思想はあまりないかもしれないです。
冲方 都市生活が常識として根付いてしまっているので、東京は子供を育てる場所ではない、という考えをもう何百年も引きずっているんですよ。それを変えなきゃいけないんですよね。
どんな都市にでもディストピア的な点とユートピア的な点はある
齋藤 お話を聞いていると、僕の大好きな都市論の話がたくさん出てくるのですが、冲方さんが実際に作品をつくられるときは具体的な都市を想像してから書かれるのですか。都市構造や政策、人間の生活について、非常に解像度高く書かれているので、どこからつくられているのかな、と。
冲方 都市を個別に想像するということはなくて。ある登場人物が存在すると、その人をつくりだしたなにかがあるわけですよ。その人に影響を与えた空間であったり環境であったり。さらには、その環境をつくりだしたなにかがまたある。それをどんどん遡っていくと、その人の後ろに、三角定規みたいにして情報が広がっていくわけです。
齋藤 なるほど。そうやって広げていくと、都市構造にまで到達する、と。たとえば真ん中に巨塔があって、その周りに螺旋状の構造物があるとか、そういう情報が登場人物の背後に……。
冲方 そうですね。マルドゥック市は利益のために公共性を犠牲にして、かつお金持ちや大企業が政治家を買って、自分たちにとって都合の良い抜け穴を法案上でつくらせてきたという設定の都市です。だから、結果的に経済格差が隔離思想になっている。ロサンゼルスなどもそうですが、お金持ちは人里離れた周辺にいて、そこに向かう道路すらお金がない人は乗れない。そのため螺旋階段の途中からどんどん入れる人が限定されていく。バベルの塔をヒントにした設定です。
内山 作品をつくる際は、ディストピア的な世界観がベースになっているのですか?
冲方 どんな都市にでもディストピア的な点とユートピア的な点はあると思うんですよね。どちらとも言えないし、もしSF的にどちらかにものすごく偏ったらどうなるのかという実験をした作品はありますよね。ジョージ・オーウェルの『1984』とか。