都市の記憶とAIによる最適化の狭間で。SF作家・冲方丁がまなざす未来【後編】
SF小説をはじめ、歴史小説、ファンタジー小説、ホラー小説、そして映画の脚本と、幅広いジャンルで執筆活動を展開する作家・冲方丁。歴史や都市、テクノロジーに関する深い知識に裏打ちされた精緻な世界は、多くのファンを魅了してきた。冲方丁がみるPLATEAUの可能性と、都市の未来とは。前編・中編・後編の計三本でお届けするロングインタビュー。
- 写真:
- 森 祐一朗
- 文・編集:
- 岡田 麻沙
- 冲方 丁
- 作家
- 内山 裕弥
- 国土交通省 総合政策局/都市局IT戦略企画調整官
- 齋藤 精一
- 株式会社アブストラクトエンジン代表取締役 パノラマティクス主宰
前編はこちら
中編はこちら
タグをつけて右から左へ振り分ける
冲方 AIにおけるバイアスの問題はそのうち日本を直撃するでしょうね。たとえば、黒人の女性だとAIのカメラが人間の顔として認識しない問題が過去にありました。あるいは防犯カメラ上の顔認識にバイアスがかかると「犯罪を犯しそうな人」から抽出していくので、別人をターゲットにしてしまう、とか。(参考記事:Forbes Japan, 2023年8月23日, 「妊娠8カ月の黒人女性、AI顔認識で誤認逮捕 デトロイト市を提訴」)
AIが嘘をつく「ハルシネーション」という現象もあります。人間もそうですが、相手が欲しがっている答えを言うんですよね。AIが商品であるということは、その人にとって必要だと思われることを言い出すということです。すると、嘘でもないけれども本当でもないことを言ってしまう。犯罪者予備軍として特定の人たちを名指ししたり、犯罪を犯した人がいたら、その背景や、文化的な事情、どのようなコンフリクトが起きていたかなどの議論を抜きにして、タグをつけて、右から左へ振り分けたりしてしまう。
内山 科学的な予測やシミュレーション、ビッグデータによる解析が増えていけばいくほど、システムが人間を予測したり分類したりする社会になっていきますね。
いま、政府は「Society5.0」という取り組みをしているんですけれども、これはサイバー空間とフィジカル空間の高度な融合を実現すると言っていて、要は情報処理技術によって現実空間の解析、予測、最適化を高度化させようとするものです。2016年の「第5期科学技術基本計画」において初めて提唱されました。これを推し進めていくと、AIやデータ解析技術が人間の選択肢を先取りして最適解を教えてくれたり、高度にパーソナライズされたレコメンドによって危険を避けたり効用を高めたりすることが可能になるとされています。でもこれは、冲方さんがおそらくは最も重視している、人間が人間であるために、自由意志をもって選択し続けられる社会とは違いますよね……?
冲方 ただ、どのようになくなっていくか、はさまざまです。江戸時代って大多数の人間に引っ越す権利がなかったんですよね。でも彼らは意外に幸福だったかもしれない。自由に出かける権利が少しあったり、空き地にはなにを建ててもよかったりとか。あんまり人が集まると「やめなさい」と止められたりする。すごいグレーゾーンの中で「このルールさえ守っていたらなにをやってもいいよ」という自由度が高かった。
再開発は、その自由度をスワイプしてしまう。だって、あんな立派なテナントに、二畳半くらいのスペースで営んでいた居酒屋なんて入れないじゃないですか。原宿の狭いTシャツ屋さんみたいなのも入れなくなるし。
齋藤 うん、そうですよね。
冲方 そう考えると、自由はなくなるな、と。全てがホワイトになってグレーゾーンが少なければ少ないほど、お金がない人は入ってこれなくなっちゃうんですよね。デパートなんかもそうですよね。お金があって余裕があるおじいちゃんやおばあちゃんしか入ってこなくなっていく。あれはお客さんが少なくなったんじゃなくて、お客さんを追い出しちゃったんですよね。入って来られなくした。
渋谷ハロウィンにはアウトカムがなかった
冲方 これも人々を追い出してしまった事例ですが、今年は「渋谷にハロウィンに来ないでください」というアナウンスがありましたね。そもそも「ハロウィンは渋谷に」と最初に呼びかけていたときに、ハロウィンとはなんなのかを決めなかったんですよね。ハロウィンは、祭典なのか?
齋藤 イベントなのか、コスプレなのか。確かにそうですね。
冲方 渋谷ハロウィンには5W1Hがなにもないんです。「ハロウィンは渋谷に」というけれど、渋谷のどこに行けばいいのかも不明だし、誰が主催したのかもわからないし、なんのためにやるのかもわからないし、そしていつ始まっていつ終わるのかもわからない。クリスマスや縁日ならば、屋台を出せる時間とたたむ時間があるんですけど。
11月の初旬に渋谷で打ち合わせをしていたのですが、すごいコスプレをしている人たちがいて「ハロウィン終わったからもう仮装していいだろう」と言っていたんです。
一同 (笑)
冲方 そういうことなのか? と。すごく気合が入った海外の方のコスプレでした。海外の方はもうハロウィンが習慣としてあるから、なんのためにあるか知っているわけです。子供のためなんですよね。子供がいろいろな家のお菓子を集め終わったらおしまい。あとはおうちで楽しむ。大人がそれをやるのは童心にかえるため。
日本人の場合、ナンパ目的とか、大学生活最後の冒険とか、目的がバラバラでまとまりがないんです。だから無秩序になる。祭礼というのは、ある種、意図的に無秩序を生み出すための装置ですから、うまく誘導してあげないと大変なことになる。それこそ、渋谷のハチ公前に集まって、交通事故のリスクも省みずひたすらスクランブル交差点を行ったり来たりしてしまう。なんの盆踊りだ、と。
それならもう、音楽に合わせてぐるぐる回ればよかったんじゃないかと思います。赤信号になると音程が低くなって、青になると高くなる、みたいな感じでひたすら移動させ続け、疲れ果てたところで帰らせる、みたいな。
盆踊りというのは、秩序ある動きをさせることで群衆雪崩を起こさせない役目を担っているんですよね。一定の歩調で動き回って、全員がワーッと入り乱れないようにする。渋谷ハロウィンにはそういう工夫がまったくなかったですね。誰かがなにか考えるんじゃないかと思っていたけれども。がっかりですよ。
齋藤 鎖国の話と同じで、わからないからシャッターを閉めたという感じがしますよね。そこにアウトカムがなかったから、どこを目指すべきかわからなくなってしまった。
Society 5.0が生まれたときに日本がどこを向いているか
齋藤 「Society 5.0」の話に戻ると、僕が面白いなと思うのは、主従関係の「主」がリアル側にあることなんです。デジタル「ツイン」というけれども、リアルが主だということが大事で。冲方さんもお話しされていた福祉の視点とか、そういうものを最適化していこうと考えると、コロナ以後は特に、リアルを重視する姿勢が全体の傾向としてもあると思います。
それから、先ほどの渋谷の話にも通じることですが、いまは分散型と中央集権型のコミュニティが同時に発生している状況で、どちらにいくんだろうと思っていたんです。でも、中間をとっていかなければいけないんだなと思います。どこかは中央集権的で、どこかは脱中央集権的である状態をつくっていかないと、ディストピアになってしまう。冲方さんの作品は、「シナリオAはこうなる」「シナリオBはこうなる」という未来を見せてくれるものだと思っています。
中央集権的なあり方と、脱中央集権的なあり方の、どこに芯を合わせてやっていくか。その時代によって異なるのかもしれません。中央集権的なシステムが主導権を握るようになりすぎると、今日の話題に出たように鎖国的で情報を遮断するような社会になっていくでしょう。いまはローカルのところでもう少し主導権を強く持とう、という時代に入っている気はしています。「Society 5.0」でもここは重要な議論ですよね。
内山 「Society 5.0」はまさにそういう話ですね。AIやデータを活用した最適化という議論と、地域ならでは、それぞれの都市に固有の価値みたいなものをどのように両立させていくか。
冲方 日本人は慎重なので、急激な変化に対してストレスを感じるんですよね。同時に、急激な変化にも耐えられてしまう、という変な国民ですけれども。
これから最適化が進んでいくと、それが「中心か周縁か」というよりは、ブワッとネットワークが広がっていくだろうなあとは思うんですけど。
内山 冲方さんのお話を伺っていると、ネットワーク的なのか中央集権的なのかはあまり意味がなく「断絶された世界に一歩踏みだす奴だけが人間だ」という感じもします。
冲方 完成されすぎると可能性がなくなって止まってしまう、ということですね。そこで変化として外に出ていく場合もありますし、逆に外からきたものを歓迎するという場合もある。理想としてはそういうことです。
とはいえ、この「Society 5.0」が極度に発達していくと、海外にいる日本人もこれに参加できるわけですよね。外に向けて広がっていく。日本人はどうしても「日本列島」に住んでいる人が日本人であるという意識がある。列島を出るともう日本人ではない、と。これは鎖国時代の常識なんですよね。
「海外に住んだらもう日本人じゃないから関係ない」という考え方は江戸時代以前、平安時代からあったんです。海外に行ったやつはもう、帰ってくるなと。一方で、開国すると海外へどんどん行けと言い始める。非常にダイナミックな国なんです。
そう考えると、「Society 5.0」が生まれたときに日本が開国と鎖国、どちらのベクトルに向かっているかが重要ですね。国際的に活躍するぞという方向なのか、国際的なトラブルをなるべく入れないようにするという体制なのかによって、発達の仕方が変わるんじゃないかと思います。開いていれば、日本在住の外国人の方も積極的に参加できるでしょうし、閉じていればきっと「日本人だけ」とか、許可を取るのがすごく大変だったり、ギスギスしたりするかもしれません。
都市というものは面積が限られているから限られた人しかそこには定住できないと、いつの間にかそう思わされているんですよね。昔は城壁で囲まれていたから、「入鉄砲に出女」といって、厳密に出入りを管理していた。だからデジタル空間でも、この枠内に入れる人・入れない人、という区別が無意識に生まれてしまう。でも本当はそれをどかさないといけないですよね。究極的には全世界が「Society 5.0」になるべきじゃないですか。どうしたら垣根を取るか、そして公共性を国際性にまで持っていくかっていうところを考えていく必要があるでしょうね。
齋藤 PLATEAUは「公共の再定義」を目指すプロジェクトなので、利や共助の話をしっかりしていくことは本当に重要ですね。ありがとうございました。
冲方 こちらこそ、素晴らしいものを見せていただきありがとうございました。PLATEAUを使ってみようと思います。