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小矢部川の歴史
万葉の歌人「家持」が詠んだ悠久の流れ
小矢部川の名前は、小矢部市の上流に小矢部という村があったことに由来し、「万葉集」に詠まれている射水川は、小矢部川であると言われています。
朝床(あさどこ)に 聞(き)けばはるけし 射水川(いみずがわ) 朝漕(あさこ)ぎしつつ うたふ舟人(ふなびと)
奈良時代に、越中の国の国守(こくしゅ)(現在の知事)大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌です。射水川とは、庄川と合流していた小矢部川のことで、当時は今よりも水の量が多く、流れもゆったりしていたため、むかしから、舟の往来が盛んだったと考えられます。家持は、越中の自然や人々を愛し、「万葉集」に多くの歌を残しました。
大伴家持の像
庄川と合流していた小矢部川
河道の変遷
小矢部川は、古くから明治末期まで、河口付近で庄川と合流していました。江戸時代の地図によると、庄川扇状地の扇頂付近から、幾筋もの庄川の分流が砺波平野を流下し、その流末は、小矢部川に注いでいました。このため、庄川の洪水の影響を多大に受けていました。
小矢部川・庄川の河道(1610年代)
大規模工事と松川除
戦国時代には、庄川の洪水が分流に流れ込み、小矢部川に大きな被害をもたらしたので、洪水の被害を少なくするため、寛文10年(1670年)から加賀藩が、庄川扇状地の扇頂付近(弁財天付近)で、庄川の分流をせき止めるための堤防工事を行い、分流は庄川から分離されました。この工事によって、砺波・射水平野の新田開発が一段と進みました。
このときつくった堤防を松川除と呼ばれています。
川除(かわよけ):当時、堤防の事を川除と呼んだ。
松川除
小矢部川・庄川分離工事(明治33年~大正元年)
洪水防御と河口における舟運の確保を目的として両川の分離工事を実施。これにより、小矢部川河口(伏木港)への影響を軽減しました。
庄川・小矢部川河口分離工事
庄川と分離された小矢部川
近年の大規模工事
昭和29年(1954年)の水害を契機に小矢部市中心市街地(石動地区)で大規模な引堤事業を実施。約70mの引堤により約130戸もの家屋移転を伴いましたが、洪水被害は減り、地域の安全に大きく貢献しています。
大規模な引堤事業(石動地区)
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